活躍
永禄5年(1562年)松平元康は今川氏に属する鵜殿長照が籠もる上ノ郷城を攻撃し、これを攻め落とした。与七郎は城主長照を討ち取るという大功を立て、元康より感状を賜っている[注釈 1][2]。また長照の子の氏長を捕らえたともいい、この氏長・氏次兄弟は、当時今川氏方に抑留されていた元康の妻子との交換に用いられている[3][4]。
この上ノ郷城攻めでは松井忠次の配下である石原三郎左衛門の要請で、甲賀の多羅尾光俊より派遣された伴中書兄弟ら甲賀忍者が火計を用い、落城に大きく貢献したとされている[3][5]。『烈祖成績』によれば、甲賀衆によって火が上がった上ノ郷城内は造反者が出たとの誤解から混乱し、城主の鵜殿氏[注釈 2]も落ち延びようとしたところを伴与七郎資定によって討たれたとしている。他に与七郎と同様、上ノ郷城攻めに参加した甲賀者として(伴中務勝永)、伴太郎左衛門資家、(伴伯耆守資綱)ら80余人があったというの名がみられ、資綱は城主の二子を捕縛する功があったという[1]。