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串田和美

串田 和美(くしだ かずよし、1942年8月6日 - )は、日本俳優演出家日本大学藝術学部特任教授。

人物

東京都小金井市出身。成蹊小学校成蹊中学校・高等学校卒業[1][2]日本大学芸術学部演劇学科中退。

父は哲学者詩人串田孫一。弟はグラフィックデザイナーの串田光弘。祖父は三菱銀行初代会長を務めた串田万蔵。母方の祖父は國學院大學理事長・学長を務めた侯爵佐佐木行忠

プロフィール

1965年俳優座養成所を卒業し劇団文学座入団。

1966年佐藤信斎藤憐吉田日出子らと共に自由劇場を結成。六本木の「アンダーグラウンド自由劇場」を本拠地とする[3]

1968年自由劇場と(六月劇場)、(発見の会)が合体して演劇センター68(のちの黒テント)が組織され全国移動公演に移行[4]1969年9月、観世栄夫と共に東ドイツに渡り、1か月東ベルリンに滞在。その後1970年3月まで1人でフランスに滞在。

1971年黒テントを脱退[4]1972年、自由劇場の実質解散後、吉田日出子に声を掛け、六本木自由劇場を本拠地に演劇活動を再開[5]。この頃から演出、美術を手がける。

1975年、正式に(オンシアター自由劇場)に劇団名を改める。『上海バンスキング』(1979年)、『もっと泣いてよフラッパー』(1977年)、『クスコ』などのヒット作を産み出す。この時期、俳優としては藤川延也という芸名を用いた。

1985年Bunkamura中劇場「シアターコクーン芸術監督に就任。劇場設計に初期段階から携わる。

1987年、自主制作映画『上海バンスキング』で初監督[6]

1989年の劇場オープンと同時に、オンシアター自由劇場もフランチャイズ契約を結ぶ。9月の杮落とし『A列車』を皮切りに、劇場レパートリー制の導入、毎回異なる演出家による『夏の夜の夢』の連続上演、「コクーン歌舞伎」など、精力的な劇場運営を行う。

1996年2月、シアターコクーン芸術監督任期満了と同時にオンシアター自由劇場も解散[7]

2000年日本大学藝術学部演劇学科教授 兼 芸術研究所教授に就任[4]

2003年4月にまつもと市民芸術館館長 兼 芸術監督に就任。

コクーン歌舞伎平成中村座公演を始めとする歌舞伎公演の演出もし、テレビCMなど多方面にて活躍中である。

2006年芸術選奨文部科学大臣賞受賞。

2007年まつもと市民芸術館を拠点として活動する劇団、まつもと市民芸術館レジデントカンパニーを結成。同2007年、第14回読売演劇大賞最優秀演出家賞(「東海道四谷怪談 北番 2008年紫綬褒章2013年旭日小綬章受章。

2011年、日本大学藝術学部放送学科特任教授に就任。

2012年まつもと市民芸術館レジデントカンパニーを(TCアルプ)に改名する。

2015年、第22回シビウ国際演劇祭で「ウォーク・オブ・フェイム」を受賞[8]

コクーン歌舞伎平成中村座歌舞伎公演演出やテレビCMなどで活動中。

出演

映画

舞台

  • 幽霊はここにいる(1998年) - 大庭三吉 役(演出・美術も担当)
  • (空中キャバレー)(2011年)-(構成・演出・出演)
  • (K.ファウスト)(2012年)- メフィストフェレス(作・演出・美術も担当)
  • (K.テンペスト)(2014年)-プロスペロー 役(潤色・演出・美術も担当)
  • (遥かなるブルレスケ〜とんだ茶番劇〜)(2016年)-クリスピン 役(潤色・演出・美術も担当)

ドラマ

CM

著書

  • 『もっと泣いてよ、フラッパー』(而立書房 1982年)
  • 『幕があがる』(筑摩書房 1996年)
  • 『串田戯場:歌舞伎を演出する』(ブロンズ新社 2007年)

脚注

  1. ^ ぴいぷる -串田和美-
  2. ^ 成蹊会お知らせ
  3. ^ 旗揚げ公演は11月の『イスメネ・地下鉄』。
  4. ^ a b c 日外アソシエーツ現代人物情報
  5. ^ 4月『阿呆劇・マクベス』
  6. ^ 他に出演、美術なども兼ねる。公開は1989年3月。
  7. ^ 最終公演は『黄昏のボードビル』『アヴィニョンのティンゲルタンゲル』。
  8. ^ “”. シアターガイド (2015年6月24日). 2015年6月29日閲覧。

外部リンク

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