中馬 庚(ちゅうまん かなえ / ちゅうま かのえ、明治3年2月9日(1870年3月10日) - 昭和7年(1932年)3月21日)は、日本の教育者、元野球選手。
ちゅうまん かなえ / ちゅうま かのえ 中馬 庚 | |
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生誕 | 1870年3月10日 薩摩国鹿児島城下西千石馬場町 |
死没 | 1932年3月21日(62歳没) |
国籍 | 日本 |
出身校 | 第一高等学校 |
職業 | 教育者 |
著名な実績 | 「野球」の訳者。日本初の野球指導書『野球』の著者。 |
栄誉 | 野球殿堂 |
アメリカ伝来のスポーツである「Baseball(ベースボール)」を「野球(やきゅう)」と訳した最初の人物として著名となった[1]。また「ショート・ストップは戦列で時期を見て待機し、動き回ってあちこちを固める“遊軍”のようだ」と説き、「遊撃手(ゆうげきしゅ)」という名称が広まった[2]。1970年に野球殿堂入り(特別表彰)。
来歴・人物
薩摩国鹿児島城下西千石馬場町(現・鹿児島県鹿児島市西千石町)出身。幼名は康四郎。旧姓は今藤で、三男として生まれた彼が一人娘であった母の実家を継いで中馬姓を名乗った。多くの書籍では「ちゅうま・かのえ」という読み仮名が用いられているが、中馬の評伝を執筆した城井睦夫などは、「ちゅうまん・かなえ」という読み方がより正確である可能性を主張している[3]。
明治20年(1887年)3月に三州義塾を卒業、翌年9月に第一高等中学校に進学した。選手として活躍していた明治26年(1893年)、第一高等中学校を卒業する際に出版する「ベースボール部史」執筆を依頼されたが、その際にベースボールを何と訳するかという問題にあたることになった。当時は、この球技は一般的にベースボールと呼ばれており、訳語を使う必要がある場合には「底球」などとしていた。しかし、これでは「庭球」と紛らわしく、新しい訳語を考える必要があった。
執筆も完成に近付いた翌明治27年(1894年)の秋、「Ball in the field」という言葉を元に「野球」と命名し、テニスは庭でするので「庭球」、ベースボールは野原でするので「野球」と説明した。この間に第一高等中学校は学制改革で第一高等学校となり1895年2月に「一高野球部史」として発行された。その後、中馬は東京帝国大学(現・東京大学)に進学している。
明治30年(1897年)、中馬は一般向けの野球専門書「野球」を5月に出版し、「ベースボール」の訳語として「野球」が一般に登場したが、雑誌や新聞で「野球」という言葉が使われるようになるなどの、いわゆる一般的な認知を受けるのはそれから5年ほど後のことになった。同年7月に同大学史学科を卒業後、兵役を経て鹿児島に戻り教師となった。
明治39年(1906年)、鹿児島第二中学校教頭となる。その後、明治42年(1909年)7月に新潟県糸魚川中学校、同45年(1912年)1月に新潟中学校、同年10月に秋田県大館中学校、大正3年(1914年)12月に徳島県脇町中学校の校長を歴任。大正6年(1917年)2月に同校を退職した後、大正7年(1918年)から浪速銀行(1920年に十五銀行に吸収合併される)に勤め、同14年(1925年)に定年退職した。昭和7年(1932年)3月21日死去。62歳。
昭和45年(1970年)、特別表彰という形で野球殿堂入りした。彼のレリーフには以下の顕彰文が刻まれている。
明治27年ベースボールを「野球」と最初に訳した人で、また同30年には野球研究書「野球」を著作。これは単行本で刊行された日本最初の専門書で、日本野球界の歴史的文献と言われている。一高時代は名二塁手。大学に進むやコーチ・監督として後輩を指導。明治草創時代の学生野球の育ての親といわれた。
令和2年(2020年)3月6日、中馬庚がベースボールを「野球」と和訳して125周年になることを記念して、鹿児島県鴨池市民球場にて「日本野球誕生125周年中馬庚先生記念試合」と銘打たれた試合が、中馬所縁の東京大学と鹿児島大学の対戦で行われ、2対0で東京大学が勝利した。ただしこの試合は、この年世界的に流行していた新型コロナウイルス感染症の拡大を警戒し、無観客で行われた[4][5]。
著作
脚注
参考文献
- 横田順彌『明治おもしろ博覧会』、西日本新聞社、1998年、14-17頁
関連項目
- ホーレス・ウィルソン - 日本に来て初めに英語で野球を全国的に伝えて教えたアメリカ人教師。
- 正岡子規 - ベースボールを野球に翻訳したという俗説のある人物。詳しくは、(子規と野球)を参照。
- 後藤善猛 - 元脇町高校校長、「ああボッケモン―“野球の名付け親”中馬庚脇中校長伝」著者