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中御門 経之(なかのみかど つねゆき)は、江戸時代後期(幕末)から明治期にかけての公卿、華族。麝香間祗候、大納言、留守長官等を歴任する。位階勲等は、従一位勲一等。
経歴
(坊城俊明)の五男として生まれ、(中御門資文)の養嗣子となる。
安政5年(1858年)に通商条約勅許問題が起こると、88人の反対グループ(廷臣八十八卿)の一人となった。文久3年(1863年)、孝明天皇の石清水八幡宮行幸を共にしている。しかし、その後は岩倉具視と手を結んで討幕派公卿の一人となり、慶応2年(1866年)には佐幕派であった関白の二条斉敬と中川宮朝彦親王を弾劾した。ところが、これが親王を厚く信任していた孝明天皇の怒りを買うこととなり、閉門処分に処せられた。同年末、孝明天皇が崩御し、明治天皇が践祚された後に罪を許されて宮中に復帰する。
その後は討幕の密勅作成などに参加し、慶応3年(1867年)12月の王政復古と共に議定に任じられた。
翌・明治元年(1868年)1月、会計事務総督を兼ね、2月に会計事務局督に転じ、閏4月には権中納言となり、ついで会計官出仕、8月に同知事となった。
明治2年(1869年)2月、造幣局掛等を歴任し、5月に内廷職知事に任じられ、7月に留守長官に転じた。9月には維新の功により賞典禄1,500石を永世下賜され、11月に大納言に任じられた。しかし明治3年(1870年)、病により留守長官を辞し、麝香間祗候を仰せ付けられた。
その後、華族会館創設の計画協議などに当たった。明治24年(1891年)8月、病が重くなったため、特旨をもって従一位に叙せられた。
明治24年(1891年)8月27日に、病気のため薨去。享年71(満70歳没)。
栄典
系譜
脚注
参考文献
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。
関連項目
公職 | ||
---|---|---|
先代 鷹司輔煕 | (留守)長官 1869年 - 1871年 | 次代 (欠員→廃止) |
先代 徳大寺実則 | (内廷)知事 1869年 | 次代 (廃止) |
先代 万里小路博房 | 会計官知事 1868年 - 1869年 | 次代 万里小路博房 |
当主 | ||
先代 (中御門経徳) | 中御門家 27代 | 次代 中御門経明 |