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大江氏系の上田氏
大江広元の孫大江佐房から始まる。承久の乱における戦功により信濃国上田荘を拝領し、子の佐泰・長広らが上田氏を名乗る。しかし直系は、弘安8年11月17日(1285年12月14日)の霜月騒動で没落した。
- 系図
「安中坊系譜」[1]
武蔵七党の上田氏
武蔵七党の西党の系統で、扇谷上杉氏の家臣の家系。(松陰私語)に戦巧者として「道灌父子(父:太田道真)、上田・三戸・萩野谷」の名が見える。
広島藩家老家→男爵家の上田家
江戸時代の広島藩家老家で明治以降に華族の男爵家となった上田家は、信濃小笠原氏の一族と称す[12]。尾張国愛知郡星崎(現:愛知県名古屋市南区)に移住して丹羽長秀に仕えていたが、上田重安の代に浅野長晟に仕えた[12]。重安は剃髪後に宗固と号して茶人として活躍し、上田流の一派を起こした[13]。
その子孫は江戸時代には広島藩家老家として続き、1万7000石を知行した[12]。また重安の次男重秀の家系は近江国野洲郡で5000石を知行する旗本家として続いた[12]。
維新後ははじめ士族に列したが、明治17年(1884年)に華族が五爵制になった際に定められた『叙爵内規』の前の案である『爵位発行順序』所収の『華族令』案の内規(明治11年・12年頃作成)や『授爵規則』(明治12年以降16年頃作成)では旧万石以上陪臣が男爵に含まれており、広島藩家老だった上田家も男爵候補に挙げられているが、最終的な『叙爵内規』では旧万石以上陪臣は授爵対象外となったためこの時点では上田家は士族のままだった[14]。
明治15年・16年頃作成と思われる『三条家文書』所収『旧藩壱万石以上家臣家産・職業・貧富取調書』は、当時の当主(上田亀次郎)について所有財産は空欄、職業は広島県社饒津神社祠官と記されている[14]。
旧万石以上陪臣の叙爵が開始されていた時期である明治33年(1900年)5月9日に至って亀次郎は華族の男爵に叙せられた[14]。
脚注
- ^ 『寒河江市史 大江氏並びに関連史料』p.93
- ^ 宝治元年(1247年)早世。
- ^ 北条時宗の死去により出家、霜月騒動で安達氏に与し討死。42歳。
- ^ 霜月騒動の時15歳で自害。
- ^ 『群書系図部集 3, 第 2 巻』p.298 佐々木系図。
- ^ 霜月騒動の時10歳で自害。
- ^ 佐々木氏信の養子となり佐々木少輔弥二郎を名乗った。
- ^ 霜月騒動で討死
- ^ 信濃国井上入道の婿となる。
- ^ 信濃国井上に住んだ。
- ^ 東松山市平成22年度きらめき市民大学課題研究のまとめ「歴史探訪 武蔵松山城から陣屋まで 郷土学部B班」
- ^ a b c d 森岡浩 2012, p. 91.
- ^ a b 華族大鑑刊行会 1990, p. 484.
- ^ a b c 松田敬之 2015, p. 135.