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三山秀昭

三山 秀昭(みやま ひであき、1946年11月12日 - )は日本実業家

略歴

富山県生まれ。早稲田大学法学部卒業後の1969年(昭和44年)に読売新聞社に入社。政治部を経て、当時読売巨人軍オーナーを務めていた正力亨の秘書に抜擢。江川事件において所謂「空白の一日」を提案し、事後処理を無難に行ったことを高く評価された。その後は読売グループ幹部でのちに読売巨人軍オーナーになる渡邉恒雄に見出される形で政治部次長、秘書部長、政治部長、そして経理局長を務め、将来の読売新聞社社長候補とまで呼ばれていた。

2003年(平成15年)9月9日から2004年(平成16年)8月13日まで読売巨人軍球団代表に赴任(後述)。

2008年(平成20年)より札幌テレビ放送専務取締役となり、2011年(平成23年)6月22日付で広島テレビ放送代表取締役社長に就任することが発表された[1]2017年(平成29年)より会長。

球団代表として

2003年の読売ジャイアンツは前年の日本一から一変、松井秀喜のメジャー挑戦による退団や主力の相次ぐ故障の影響により優勝争いから脱落。当時の渡邉恒雄オーナーは自分の懐刀であり、江川事件で読売グループから高い評価を受けていた三山を球団代表に就任させることで、来期のチーム建て直しを行おうとした。

しかし、三山は監督の原辰徳ら現場と相談なしにフロント主導で人選を行おうとしたり、チームが9連敗した9月15日の夜に原を呼び出し、采配について注文をつけるなどしたため対立を招いてしまう。そして当初は原の続投を考えていた渡邉オーナーが「阪神に三連敗したら話は別」と発言したことを拡大解釈し、「契約が残っていたら全部やるんですか?中日山田久志監督はどうでしたか?[注 1]」とシーズン途中の解任も辞さない発言をしたため原との確執は決定的となり、渡邉オーナーに対して辞表を提出した原は人事異動という形で監督を辞任することとなった[2]。この進退騒動について、日本テレビ氏家齊一郎会長からは「三山ごときのチンピラが何をやっているか分かりっこない」と痛烈に批判されている[3][注 2]

その後も来期契約の際に代理人を据えようとした上原浩治に対して認めなかったため、代理人の弁護士から名誉毀損の警告書を送付されたり[4]日本ハムと交渉が行われていた入来祐作に関して、当時ポスティングシステムによりメジャーリーグ入りを希望していた入来に関して日本ハムとの食い違いが発生し、日本ハム側から交渉を一時凍結される事態に陥るなど[5]このオフシーズンの巨人は編成が混乱、翌2004年(平成16年)にはプロ野球再編問題で揺れる中明治大学硬式野球部に所属し、ドラフト会議の注目選手であった一場靖弘に対し自由獲得枠の見返りに栄養費名目で200万円を授受していたことが発覚(一場事件)し、わずか1年足らずで渡邉オーナーと共に球団代表を辞任した。

このように就任時の期待とは逆に現場介入による監督・選手との亀裂や不祥事などが影響しジャイアンツの成績はさらに下降、2005年(平成17年)はチーム初の80敗を喫するなど5位に低迷し、さらに観客動員数の低下やプロ野球中継の減少を引き起こす要因となってしまった。

なお、2005年シーズン終了後に原が監督に復帰し、2015年まで采配を続け、10年で2度の日本一と6度のリーグ優勝を達している。

脚注

注釈

  1. ^ 山田監督は9月9日に成績不振を理由に休養(事実上の解任)している。
  2. ^ もっとも、この発言は豊田泰光週刊ベースボールのコラムで、「報道のトップにいる人の発言ではない」との理由で批判された

出典

  1. ^ 広島テレビ放送社長に三山氏 - 日本経済新聞 2011年5月25日
  2. ^ 巨人の原監督辞任/監督交代は人事異動?(東奥日報、2003年9月26日特集)
  3. ^ スポーツ報知、2003年9月23日記事
  4. ^ サンケイスポーツ、2003年11月29日記事
  5. ^ 日刊スポーツ、2003年12月13日記事

関連項目

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