センティア(Sentia )は、マツダが1991年から2000年にかけて販売していた、Eセグメントに属するプレステージサルーンである。
概要
長らく販売されていたルーチェ[注釈 1]の後継にあたるマツダのフラッグシップモデルで、アメリカ合衆国においてはルーチェと同じくマツダ・929(MAZDA 929 )として、1991年から1997年にかけて販売された。先代のルーチェと異なり、ロータリーエンジン搭載車はラインナップされていない。
バッジエンジニアリングであるアンフィニ・MS-9が、同社が展開していた販売店ブランドアンフィニで、1991年から1994年にかけて販売された。
初代 HD系(1991年-1995年)
マツダ・センティア(初代) HD系 | |
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フロント | |
リア(写真は海外仕様の929) | |
海外仕様車の929 | |
概要 | |
販売期間 | 1991年5月 – 1995年11月 |
デザイナー | 田中俊治 |
ボディ | |
乗車定員 | 5名 |
ボディタイプ | 4ドアサルーン |
駆動方式 | 後輪駆動 |
(パワートレイン) | |
エンジン | 2.5L V型6気筒 (J5-DE型) 3.0L V型6気筒 (JE-ZE型) |
最高出力 | 160PS(J5-DE型) 200PS(JE-ZE型) |
変速機 | 電子制御4速AT |
サスペンション | |
前:マルチリンク 後:マルチリンク | |
車両寸法 | |
ホイールベース | 2,850 mm |
全長 | 4,925 mm |
全幅 | 1,795 mm |
全高 | 1,380 mm |
車両重量 | 1,590-1,640 kg |
その他 | |
トレッド | 前: 1,510mm 後: 1,525mm |
系譜 | |
先代 | マツダ・ルーチェ |
1991年5月発売。
センティアは、同車の「パーソナルユースに徹した、3ナンバー専用のプレステージセダン」[1]というコンセプトのもと開発され、カペラに搭載されていたものと基本的に同様の車速感応型4WSシステムや、ガラス製サンルーフ部分に太陽電池を組み込み停車中の車内をファンで換気する「ソーラーサンルーフ」などを搭載する、同社が持つ最先端技術の粋が集められたモデルだった。最小回転半径は4WSシステム搭載車で4.9m、非装着車は5.6m。
ボディサイズは、セルシオに近いサイズにまで拡大されたが、実際には1989年4月施行となった税制改正の時期が読めなかった開発途中の段階では、従来ルーチェと同じ5ナンバー仕様と拡幅ボディ仕様との両方を開発していた。そのデザインもなかなか方向性が決まらず、86年6月から始めた1/1クレイモデルについても、途中から拡幅ボディ仕様に一本化されたものの、合計16台を制作した。こうした難産の末、17作目として1/5クレイモデルでようやくテーマが決まったのが1988年12月で、そこからは翌年1月に1/1モデル、4月には役員承認を受けるといった具合に急ピッチで話が進んだ。デザイナーの田中俊治によれば、デザインコンセプトは「遊想パーソナルセダン(セダンとしての要件を踏まえつつ、想いを遊ばせるようなクルマ)」であるという。
そのスタイリングは、先代にあたるルーチェの直線を基調としたボクシーなプロポーションから一転し、イギリスのジャガー・カーズのモデルを連想させる低いボディに豊かな曲面構成と美しいプロポーションを誇る、やや低く伸びやかでエモーショナルなスタイリングをまとうこととなった。そのため、一部の間では同車をユーノス・コスモのサルーンバージョンと受け取る向きもあった[2]。
このデザインは海外の自動車デザイナーからも非常に高い評価を受けており、当時ルノーのデザイン部門を率いていたパトリック・ルケマンは東京モーターショーに来場した際にこの車に触れ、「マツダのデザインは独創的だが、特にこの車はとても美しい」と誉めそやしたという。
当初はルーチェの13B型ロータリーターボエンジン搭載車を所有しているユーザーの代替需要を狙い、20B型3ローターターボエンジン搭載車も予定されていたが、バブル崩壊による景気の悪化とそれに伴うマツダの経営危機から断念された。
エンジンはJ5-DE型2.5LとJE-ZE型3.0LのV6が搭載され、トランスミッションには4速ATのみが設定された。上述した4WSシステムは全車に標準装備され、トップグレードである3.0 エクスクルーシブには上記の「ソーラーサンルーフ」のほか、本革シートや300Wの出力を誇った6連奏CDオートチェンジャー付ステレオ、ステアリング連動式フォグランプが標準装備された。
1992年8月に「25リミテッドG」を追加。
1994年1月に実施されたマイナーチェンジにより、バッジエンジニアリングであったアンフィニMS-9が同車に統合された。フロントヘッドランプのクリア化やフロントグリルのブラックアウト化といった一部変更とともにグレード構成の見直しが実施され、全車に標準装備されていた4WSシステムの一部グレードでの非標準装備化、CCS(カーコミュニケーションシステム)のオプション設定化がされた。
1995年9月[3]に生産終了。在庫対応分のみの販売となる。
1995年11月に2代目と入れ替わる形で販売終了。
グレード名称 | 生産年度 | 車両型式 | 排気量 | 新車価格 |
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25 リミテッド | 1991年5月-1993年12月 | E-HD5S | 2,494cc | 275.0万円 |
25 リミテッド S | 298.5万円 | |||
30 リミテッド J | E-HDES | 2,954cc | 316.0万円 | |
30 リミテッド G | 348.5万円 | |||
エクスクルーシブ | 413.5万円 | |||
25 タイプJ | 1994年1月-1995年9月 | E-HD5P | 2494cc | 279.8万円 |
25 タイプJ-X | E-HD5S | 328.5万円 | ||
30 タイプJ | E-HDEP | 2,954cc | 303.0万円 | |
30 タイプJ-X | 364.0万円 | |||
エクスクルーシブ | 414.5万円 | |||
ロイヤルクラシック | -万円 |
2代目 HE系(1995年-2000年)
マツダ・センティア(2代目) HE系 | |
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フロント(後期型) | |
リア(後期型) | |
概要 | |
販売期間 | 1995年11月 – 2000年11月[4] |
ボディ | |
乗車定員 | 5名 |
ボディタイプ | 4ドアサルーン |
駆動方式 | 後輪駆動 |
(パワートレイン) | |
エンジン | 3.0L V型6気筒 JE-ZE型 |
最高出力 | 205PS |
変速機 | 4速AT |
サスペンション | |
前:マルチリンク 後:マルチリンク | |
車両寸法 | |
ホイールベース | 2,850 mm |
全長 | 4,895 mm |
全幅 | 1,795 mm |
全高 | 1,420 mm |
車両重量 | 1,530-1,620 kg |
その他 | |
トレッド | 前: 1,510mm 後: 1,525mm |
生産台数 | 約18,200台 |
系譜 | |
後継 | 無し |
1995年11月に販売が開始された。
2代目センティアは、当時の景況及びマツダの台所事情から、開発途中で(MPVのように)初代のビッグマイナーチェンジで済ます方法も提案された。最終的に経営会議の席上で、ビッグマイナーチェンジ版とフルモデルチェンジ版の両方が検討された結果、1995年にフルモデルチェンジを迎えた。
初代のパーソナルセダンからはうって変わり、所謂「中型車要件」を盛り込んだフォーマルにも対応できるセダンへと変貌した。簡単に言えば、「HC系ルーチェのお客様にも乗ってもらえるセダン」へと先祖返りした訳である。そのため、スタイリッシュだった初代と比べ、押出し感や威厳を強調させたスタイリングとなっている。2代目のスタイルは幻に終わった(アマティ1000)のスタイルによく似ているといわれている。更に、当時同じフォードグループであった、ジャガー・XJにも、内装のインパネデザインなど、影響を受けた所も多数ある。この様なデザイン等の変更により、初代にて不評だった後席居住性やトランク容量が改善された。
この大幅なスタイルの変化は、マツダのフラッグシップとなる予定であったアマティ1000が発売されなかったことにも起因するもので、さらにいえば、初代センティアがパーソナルかつスタイリッシュな装いだったのも、重厚な装いを纏うアマティ1000を発売する前提があったからこそあれだけ大胆な方向へ振ることができた、とも言われている。
広告及びCMキャクラターにショーン・コネリーを前面に起用し(彼をイメージしてデザインされた)、重厚かつ高級さを前面に押し出したCMを放送していたが、時代の流れに乗り切れず、販売にもつながらなかった。韓国の起亜自動車はこれをベースにしたモデルをポテンシャの後継として「エンタープライズ」という名称で生産した。
前述のようにフルモデルチェンジを果たしたとはいえ、マツダの経営状況が厳しい最中のデビューだったこともあり、開発費の都合上(スキンチェンジ)とせざるを得ず、プラットフォームのみならず、インナーパネル等に至るまで初代からの流用となった。インテリアもコストダウンがはっきり分かってしまうほど品質が低下してしまった[注釈 2]ことや、更にはマツダの販売チャネルの整理・経営改革の真っ只中という悪条件が重なり、競合車種のクラウン、セドリック/グロリアはともかく、ウィンダム、セフィーロ、ディアマンテなどのFFミドルセダンという新興勢力の中にも埋もれてしまい、販売は苦戦した。
エンジンは全車3Lのみで2.5Lは廃止された。センティアからの3.0L V6DOHC24バルブ(205馬力)とMPVやかつての5代目ルーチェと共通のSOHC18バルブ(160馬力)の2種類が用意された。初代に続き、車速感応型4WS装着車種も用意されたが、日産の(スーパーハイキャス)のようなヨーレート感応型ではなかったことから作動に違和感があったため、それを和らげるために最大転舵角を7度から5度に縮小した。
1997年9月、マイナーチェンジでフロントグリルの桟を横から縦に変更と同時にマツダの新CIマークに変更された。見劣りしていた内外装のグレードアップも図った(前期では、ロイヤルクラシック以外には採用されていなかったフェンダーマーカーや、シェードつきフロントガラスなどをほぼ全車に採用)。
2000年6月[5]に生産終了。流通在庫分のみの販売となる。
決算となる2000年11月までに流通在庫分の未登録車の登録を全て完了し、販売終了となった。これにより同社より後輪駆動の高級セダンが消滅した。
なお、センティア廃止後は後継モデルの開発が行われておらず、事実上の後継車はセンティアより格下の価格帯となるミレーニア(1997年販売)となったが、そのミレーニアも決算となる2004年3月までに流通在庫分の未登録車の登録を全て完了し、販売終了となった。それ以降、マツダからラージサイズセダンのラインナップは姿を消している。なお、センティアが担っていた同社の重役送迎や広島県の公用車にはMPVやCX-8が使用されている[注釈 3]。
車名の由来
車名のセンティアは、フランス語で「感じる」を意味するsentirとラテン語で「場所」を意味するiaとを組み合わせできた造語で、「感動を呼ぶ洗練された空間」の意味合いが込められている。
脚注
注釈
出典
- ^ マツダホームページ>マツダのクルマづくり>クルマづくりの歴史>マツダの歴史>1990年-1999年>初代センティア誕生
- ^ GAZOO>名車館>1991年 マツダ・センティア エクスクルーシブ 2010年7月24日, at the Wayback Machine.
- ^ “センティア(マツダ)1991年5月~1995年9月生産モデルのカタログ”. リクルート株式会社 (2020年1月25日). 2020年1月25日閲覧。
- ^ “センティア(1995年11月~2000年11月)”. トヨタ自動車株式会社 (2020年1月25日). 2020年1月25日閲覧。
- ^ “センティア(マツダ)のカタログ”. リクルート株式会社 (2020年1月25日). 2020年1月25日閲覧。
関連項目
- マツダ
- マツダアンフィニ
- 起亜自動車
- アンフィニ・MS-9 - 姉妹車
- キア・エンタープライズ - 姉妹車
- マツダ・ルーチェ - 先代
- マツダ・ロードペーサー