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ポール・ラッシュ

ポール・フレドリック・ラッシュ(Paul Frederick Rusch 1897年11月25日 - 1979年12月12日)は、アメリカ合衆国インディアナ州出身の教育者牧師親日家として知られ、日本に多くの業績を残し、戦後の日本の復興に多大な貢献をした。

ポール・ラッシュ
Paul Rusch
生誕 (1897-11-25) 1897年11月25日
アメリカ合衆国インディアナ州(フェアマウント)(英語版)
死没 (1979-12-12) 1979年12月12日(82歳没)
日本東京都中央区明石町
墓地清里聖アンデレ教会
国籍 アメリカ合衆国
出身校ルイビル市立大学商学部
職業教育者教授牧師
宗教キリスト教米国聖公会

生涯

1897年、インディアナ州(フェアマウント)(英語版)で生まれ、ケンタッキー州ルイビルで育った[1]第一次世界大戦のフランス戦線に兵士として出征[2]

1923年から24年にかけて、オハイオ州にあるホテルの副支配人を務める[3]

1925年1月、ニューヨークのザ・ボウマン・ビルドモア・ホテル・チェーンで支配人を目指して働き始めたところ、知人から国際YMCA(キリスト教青年会)の職員としてエルサレムにいくよう勧められ、渡航を決意する。エルサレムへの渡航準備をしていたところ、関東大震災後の東京と横浜のYMCA拠点の再生委員に指名されることとなり、日本への渡航が決まる[3]

1925年5月3日、国際YMCAから派遣され横浜港に来日し、YMCA再建の仕事に携わる[3][4][1][5]。同年夏、ラッシュは早稲田大学の理事で、立教大学と同じく聖公会が設立したコロンビア大学M.A.(修士)を取得した田中穂積(後の早大第4代総長)[6]に誘われて軽井沢に滞在、そこでオペラ歌手の藤原義江と出会い、藤原の軽井沢でのコンサートの開催に関与した(翌年には、開業して間もないハリウッド美容室に軽井沢への出店を指導している)[7]。ラッシュは当初、東京YMCAと横浜のYMCA再建の仕事が終わり次第帰国する予定だったが、彼の働きぶりを見ていた立教学院理事長のジョン・マキム主教とノーマン・スペンサー・ビンステッド司祭に頼まれ[4]、1926年5月に立教大学の経済学教授に着任した。当初は1年の約束であった。マキムがラッシュを抜擢した理由は、天性ともいえる組織作りのリーダーシップと面倒見の良さにあった[2]

ラッシュは、立教大学に着任すると職員寮として五番館が与えられたが、まもなく早稲田大学の商業英語の教授も兼任するようになったため、昼、夜の区別もなく学生のたまり場となる。ここに集まった学生が後に「五番館ボーイズ」と呼ばれ、さまざまな学生活動の母体となった。ラッシュにとって、最初の学生組織づくりとなったのが、1927年(昭和2年)に設立された英語会大学連盟である。それまで慶應、東京商科(現・一橋)、明治、立教、早稲田の5大学でそれぞれ個別に活動していた英語会(ESS)であったが、学生たちに連携を呼びかけ、英語会大学連盟が設立されることとなった。学生発起人の中心となった人物は立教大学の教え子である小川徳治と五番館に出入りしていた明治大学生の松本瀧藏であった。小川と松本はその後、アメリカの大学に留学し、本場で人気スポーツとなっていたアメリカンフットボールを体験したことが1934年、東京学生米式蹴球連盟(のちの東京学生アメリカンフットボール連盟)設立の伏線となった[2]

ラッシュは、立教大学の教授として経済学英語の教育を行うとともに、アメリカンフットボールの日本での普及に尽力していくこととなる(詳細は後述)。また山間高冷地で米作に適さなかった清里高原山梨県北杜市)での酪農西洋野菜の栽培促進による開拓支援を行った[4]

1928年から1931年まで、ルドルフ・トイスラーを助け、聖路加国際病院の新病院建設資金の募金活動を行った[4]。病院の募金目標額は260万ドル(現在の価額に換算して約120億円)で、計画は米国内の市民に募金を呼びかけ、集めたドルで東京・築地に東洋一の世界最高水準の慈善病院を建設することだった。この計画は不可能と思われたが、ラッシュはトイスラーの指示に従い、ニューヨークに募金本部を置き、1931年までの3、4年間で見事に計画した額を達成した。その募金活動成功の背景には、聖路加国際病院が米国聖公会の伝道事業であり、大富豪であるロックフェラー財団やモルガン財団が全面的に協力したためであった[2]。ラッシュが日本の若者に残したメッセージに『Do your best and it must be first class.(最善を尽くし、かつ一流であれ)』がある。アメリカンフットボール関係者もよく引用する言葉であるが、この名句は聖路加の募金活動を通じてトイスラー院長からラッシュに伝授されたものであった[2][8]

1941年の太平洋戦争開戦後もラッシュは日本への残留を希望したが、「敵国人」という立場から認められず、一旦敵性外国人抑留施設「(スミレキャンプ)」(菫女学院に設置。現在の田園調布雙葉学園[9]。)に収容された[9]後、日米交換船に乗って帰国する[10]。帰国後のラッシュは、滞日体験を買われてアメリカ陸軍情報部(MIS)の語学学校人事課長に就任、日系二世軍人への日本語教育などを担当した[10]。また、米国各地の教会で戦争後の日本救済への支援協力を訴えるため講演活動を行った。戦争終結後の1945年9月10日に再来日してGHQ参謀第2部配下にあった民間諜報局(CIS)に配属される[10][11]。ラッシュは1949年7月に退役するまで日本人戦犯リストの作成や赤狩りに関係した情報収集活動に携わり(詳細は後述)、マッカーサー元帥の理解を得ながら、戦禍で疲弊した日本社会の再建活動に取り組んだ[4]。陸軍在職時の階級は中佐。 ラッシュは、戦時中軍部に弾圧された立教大学日本聖公会の再生とともに、聖路加国際病院の復興と、アメリカンフットボールや高校野球、清里の復興にも多大な貢献をしていった[4]。立教大学の再生の一つとして1948年には小学校を開設し、小学校から大学にいたる立教学院の一貫教育を実現している[12]

 
ポール・ラッシュの胸像

ラッシュは、米国聖公会の信徒でもあるダグラス・マッカーサーの特別許可を得て、1948年に戦後日本人として初めて海外渡航することとなった八代斌助らをGHQの特権と人脈を駆使して皇室との間を取り持つなど渡航の支援を行った。またラッシュは、立教大学の卒業生であった京都・西陣織で皇室御用達を務めていた高田茂に依頼し、日本の伝統技術を尽くし、英国の伝統様式に則った荘厳なコープ(法衣)とマイター(主教冠)を制作し、ランベス会議に出席する八代からの英国国教会カンタベリー大主教への贈り物として届けることを手配した。こうした資金は毎日新聞本社にあったセント・ポールクラブでの慈善ダンスパーティなどで調達したものであった。昭和天皇のメッセージとともに日本からの贈り物を受け取ったカンタベリー大主教はことのほか気に入り、1953年6月2日、英国女王エリザベス2世の戴冠式で着用した。かつての敵国民が制作した法衣をまとい、カンタベリー大主教は、エリザベス2世の頭に王冠を被せたのである[2]

1979年、聖路加国際病院にて82歳で逝去、亡くなる直前には静養していた八ヶ岳山麓の清里まで第100代カンタベリー大主教を務めたマイケル・ラムゼーが見舞いに訪れた[4]。亡くなった際に1円の私財も残されておらず、所持品は聖書と万年筆、何着かのスーツに加え、パジャマと歯ブラシだけであったという。すべてを日本に捧げた人生であった[2][4]。遺骨は現在、清里聖アンデレ教会納骨堂に安置されている。

日本でのアメリカンフットボールの普及

 
東京学生米式蹴球リーグ戦(1935年、立教対法政)

日本のアメリカンフットボールの歴史は、1934年春頃から、ポール・ラッシュ(立教大学教授)の声掛けにより、ジョージ・マーシャル(立教大学体育主事)、松本瀧藏(明治大学教授)、小川徳治(立教大学教授)、アレキサンダー・ジョージ(アメリカ大使館武官)、メレット・ブース(アメリカ大使館付武官)、加納克亮(朝日新聞記者)らが立教大学に集まり、我が国でのフットボール競技活動開始を協議したことに始まった[13]

ラッシュは、1934年10月28日に立教大学五番館において東京学生米式蹴球連盟設立(現・関東学生アメリカンフットボール連盟)を設立。ラッシュは、合わせて立教大学明治大学早稲田大学の三大学にアメリカンフットボール部を創部する[14]

1934年11月29日には、明治神宮競技場において日本初のアメリカンフットボールの公式試合が開催される運びとなった。全東京学生選抜チーム(立教、明治、早稲田)と横浜カントリイ・アスレチック・クラブ(YCAC)との対戦で、開会式ではジョセフ・グルー米国大使が祝辞を述べ、観客は約2万人と盛況の中での試合となった[13]。同年12月8日には、日本で最初のアメリカンフットボールのリーグ戦である東京学生リーグが開幕し、立教大学池袋グラウンドで初戦の立教大学対明治大学戦が開催された[13]

太平洋戦争中はアメリカンフットボールも敵性スポーツと判断されて中断されたが、戦後の再来日後、1948年に行われた第1回ライスボウルでは始球式のキックを行った[5]

1961年には日本アメリカンフットボール協会から「日本フットボールの父」と称号をもらった[1]。この業績を記念して1984年からライスボウルの最優秀選手にはポールラッシュ杯が贈られるようになった[5]

立教大学体育会アメリカンフットボール部のチーム名“ラッシャーズ”はポール・ラッシュにちなんで名付けられた。

その他スポーツの普及と高校野球・夏の甲子園大会の復活

 
ニューヨークのタウンホールで行われた立教大学野球部の歓迎会(1932年5月11日、中央テーブル奥にベーブ・ルースルー・ゲーリッグの姿が見える)

ラッシュはアメリカンフットボール以外のスポーツの育成にも努めたが、アメリカンフットボールの普及に先立って、大学野球の振興に関わっていた。特にアメリカでの聖路加国際病院建設募金から帰国した1931年には、六大学野球リーグを立教大学が初制覇したことから、1932年4月、立教大学野球部の米国遠征を大学体育主事のジョージ・マーシャル教授と企画した。野球部の選手たちは、米国各地を回り、アイビーリーグの優勝校であるイェール大学とも対戦し、8-1で勝利するなどの戦績も収めた。遠征のハイライトであるニューヨークでは、ヤンキースの試合を観戦した後、ベーブ・ルースルー・ゲーリックらも出席して歓迎会が開催され、スポーツを通じ日本とアメリカの友好関係をさらに深めた[2]。各チームとの試合の調整を含め、これらもラッシュが遠征の2か月前から米国入りし、事前に段取りをつけたものであった[15]

1933年には、立教大学ア式蹴球部(現・サッカー部)の2代目部長として、関東大学サッカーリーグ2部で全勝優勝させ、1部昇格へと導いた[16]

またラッシュは、日本に早い時期にカーリングを紹介したと言われている[17]

戦後まもなく、GHQの将校として再来日したラッシュは、日本の復興には日本の若者たちに夢や希望と生きる活力を与えるスポーツを復活させることが喫緊課題であるとし、真っ先に野球大会の復活に尽力した。朝日新聞社に働きかけて、夏の甲子園大会である全国高等学校野球選手権大会(当時・全国中等学校優勝野球大会)を戦争が終わった1周年である1946年8月15日に復活開催させた[注釈 1]。大会主催の朝日新聞社は、ラッシュを戦後初の全国大会開会式の主賓として招待し、野球復活の最大の恩人に敬意を払った。この歴史的なスポーツの祭典の復活にあたって、ラッシュは「本大会を機に再び野球は日本の若者の血をわかすであろう。オメデトウ、Do your best!」と翌日の朝日新聞にも記録される名演説を行い、出場全チームに白球をプレゼントしたのである[2][8]

GHQでの活動

前記の通り、太平洋戦争後の1945年から1949年まで、GHQ・G2の民間諜報局(CIS)に所属した。春名幹男の著書によれば、民間諜報局で文書の編集課長をしていた[19]。G2に残された石井ファイル(731部隊隊長だった石井四郎元中将の取調及び免罪工作に関与する文書)には、ラッシュの名前が記された文書が多数残されている。そのことから、春名はラッシュが免罪工作に関わっていたと考えている[19]。このほか春名は、ラッシュが有末精三らを通じて、公職追放者の個人資料収集、戦犯訴追資料として原田熊雄日記(『西園寺公と政局』)の発掘と翻訳(里見弴吉野源三郎が担当)、吉田茂白洲次郎松本重治片山哲森戸辰男福島慎太郎らとの人脈形成などをおこなったとしている[19][20]

ラッシュは外交官の沢田廉三美喜夫妻が麹町に所有していた邸宅を接収し、ここをCISの拠点「CISハウス」として使用した[20]。CISハウスには戦犯訴追に関する個人情報が集められ、戦犯リストが作成された[20]。ラッシュには寺崎英成をはじめ政府関係者が接触し、「戦犯を作り出すより、頼まれてもみ消す方が多かった」とされる[21]

また、1946年1月以降は「日本共産党に関する情報収集」に当たったとされる[21]加藤哲郎によると、ラッシュは上司に当たるチャールズ・ウィロビーとともに、中国革命に好意を示すジャーナリストを告発する赤狩りの一環としてアグネス・スメドレーを標的としたゾルゲ事件の調査に携わった[22]。1947年8月にCISが作成した報告書について、加藤哲郎はラッシュが作成を指揮したのではないかと推定している[23]。さらに、1949年にはスメドレーに関する情報収集の一環として、戦前に上海リヒャルト・ゾルゲと関わりのあった川合貞吉を情報源として尋問した[24]。このあとG2は川合に情報源としての報酬を与え、日本の警察とも連携して保護警備し、G2と日本警察は川合が個人的動機で共産党の内情と伊藤律を誣告した内容をも「活用」することとなった[25]

友人であった女性教育者、河井道

1941年12月8日、日米開戦の日に、聖公会信徒の津田梅子に学んだ恵泉女学園創設者の河井道が、立教大学を訪問しラッシュを見舞った。ラッシュのその時のことを、「ミチは勇敢だった。恐れを知らぬ女史だった。天を見上げ、私のために祈ってくれた姿をはっきりと覚えている。憲兵隊たちに連れて行かれようとしている私に『大丈夫ですよ、神共にいます』と勇気づけてくれたたった一人の友人だった。」と語っている[26]
戦後、知日派としてマッカーサー司令部に配属されて再来日したラッシュと、GHQで再会すると、河井はラッシュに「私は女子教育のため、貴兄は男子教育の為に励み合いましょう」と声をかけたという[26]

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ 甲子園は、連合国軍総司令部(GHQ)に接収されていたため、阪神甲子園球場と同じ兵庫県西宮市にある阪急西宮球場で開催された[18]

出典

  1. ^ a b c “Dr. Paul Rusch, the Pioneering Father of Kiyosato”. 北杜市. 2010年3月10日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i 『75周年記念特集 フットボールの父 ポール・ラッシュの真実』関東学生アメリカンフットボール連盟
  3. ^ a b c 『清里高原発展に生涯を捧げたポール・ラッシュの生き様とは!?~前編』知の冒険
  4. ^ a b c d e f g h キープ協会について
  5. ^ a b c “日本フットボールの父 ポール・ラッシュ博士”. 日本アメリカンフットボール協会. 2010年3月10日閲覧。
  6. ^ 講談社『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』
  7. ^ Elizabeth Anne Hemphill, The Road to KEEP: The Story of Paul Rusch in Japan, pp.18-19, Walker/Weatherhill, 1970.
  8. ^ a b 『ポール・ラッシュ博士』清泉寮
  9. ^ a b 小宮まゆみ. “太平洋戦争下の「敵国人」抑留 : 日本国内に在住した英米系外国人の抑留について(研究)”. お茶の水女子大学. 2021年11月13日閲覧。PDF pp.9-12
  10. ^ a b c 加藤哲郎 2014, p. 108.
  11. ^ “HOT OFF THE GRIDIRON #60「フットボールと戦争」”. 2010年5月6日閲覧。
  12. ^ Christian Today『わが人生、日本の青年に捧ぐ―知られざるポール・ラッシュ物語 立教学院展示館で開催中』2017年8月13日
  13. ^ a b c 『日本アメリカンフットボールの活動の記録』公益社団法人日本アメリカンフットボール協会
  14. ^ BIG BEARS
  15. ^ 宮本 正明「百瀬和夫「アメリカ遠征日誌」(1932年4月7日~7月2日)」『立教学院史研究』第11巻、2014年。 
  16. ^ 立教大学サッカー部 クラブヒストリー - YouTube
  17. ^ 山梨県立博物館かいじあむ
  18. ^ 『(あの日あの時)1946年8月15日 全国高校野球』朝日新聞デジタル 2018年8月15日
  19. ^ a b c 春名幹男 2003.
  20. ^ a b c 加藤哲郎 2014, p. 107.
  21. ^ a b 加藤哲郎 2014, p. 109.
  22. ^ 加藤哲郎 2014, pp. 76–77.
  23. ^ 加藤哲郎 2014, p. 110.
  24. ^ 加藤哲郎 2014, pp. 114–115.
  25. ^ 加藤哲郎 2014, pp. 116–123.
  26. ^ a b 恵泉女学園資料室『資料室だより』第24号 2018年11月3日

参考文献

  • (井尻俊之)、(白石孝次)『1934フットボール元年 父ポール・ラッシュの真実』ベースボール・マガジン社、1994年12月。ISBN (4-583-03180-7)。 
  • 加藤哲郎『ゾルゲ事件 覆された神話』平凡社〈平凡社新書〉、2014年3月。ISBN (978-4-582-85725-2)。 
  • 春名幹男『秘密のファイル CIAの対日工作』 上巻、新潮社〈新潮文庫〉、2003年9月。ISBN (4-10-114821-X)。 
  • 山梨日日新聞社編 編『清里の父ポール・ラッシュ伝 do your best and it must be first class』山梨日日新聞社、2004年8月。ISBN (4-89710-500-5)。 

関連項目

外部リンク

  • キープ協会
  • ポール・ラッシュ記念センター
  • 立教うんちく話 第16回 「ポール・ラッシュ博士(Paul Frederick Rusch 1897-1979)」 立教大学校友会
  • Paul Rusch ポール・ラッシュ - 立教大学体育会アメリカンフットボール部 St.Paul's Rushers
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