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ペンシルベニア (戦艦)

艦歴
発注
起工 1913年10月27日
進水 1915年3月16日
就役 1916年6月12日
退役 1946年8月29日
その後 1948年2月10日、海没処分
除籍 1948年2月19日
性能諸元
排水量 基準:33,100トン
満載:36,500トン
全長 185.32m
全幅 32.39m
吃水 10.05m
機械 カーチス式直結型蒸気タービン(建造時)[注釈 1]
ウェスティングハウス減速型蒸気タービン(改装後)
4軸推進
主缶 バブコック&ウィルコックス缶×12(建造時)
ビューロウーエクスプレス缶×6(改装後)
最大速 21ノット (24 mph; 39 km/h)
乗員 士官、兵員915名
兵装 45口径35.6cm砲:12門
38口径12.7cm砲:16門
56口径40mm対空砲:40門
70口径20mm対空砲:71門

ペンシルベニア (英語: USS Pennsylvania, BB-38) は、アメリカ海軍戦艦ペンシルベニア級戦艦ネームシップ[注釈 2]日本語ではペンシルバニア[4][5]ペンシルヴェニア[6][7]ペンシルヴァニアと表記することがある[3][8][注釈 3]。 艦名はペンシルベニア州にちなむ。その名を持つ艦としては3隻目[注釈 4]。 姉妹艦はアリゾナ[11] (USS Arizona, BB-39) である[12][注釈 5]

概要

ペンシルベニア級戦艦はネバダ級戦艦の改良強化型で[14][注釈 5]、約20ノットという速力、主砲として45口径14インチ三連装砲塔4基(計12門)を有する[11][15]。アメリカ海軍の、いわゆる標準型戦艦である[注釈 6]。竣工時は世界最大の戦艦であった[17]ペンシルベニア (USS Pennsylvania, BB-38) は建造時から旗艦施設が充実しており[18]、たびたびアメリカ艦隊の旗艦を務める[注釈 7]太平洋戦争開戦時も[19]太平洋艦隊旗艦であった[20][21]

日本海軍機動部隊による真珠湾攻撃の時[22][23]、太平洋艦隊旗艦の本艦は駆逐艦2隻と共に海軍工廠の乾ドックに入渠しており[24][25]、爆撃で若干の被害を受けたが早期に復帰した[26][注釈 8][注釈 9]。 哨戒任務や護衛任務に従事したあと[19]、1942年10月から1943年2月にかけて大改装を受ける[28]。これにより外観を一新し、近代戦闘能力を有することになった[29][注釈 10]

戦線復帰後は各作戦で地上目標に対して艦砲射撃をおこない[30]連合国軍の上陸作戦を支援した[11]レイテ沖海戦では、スリガオ海峡西村艦隊と交戦している[30]。1945年(昭和20年)3月から7月にかけて修理をおこない、対空火器やレーダーの換装をおこなう[31]。戦線復帰直後の8月12日、艦上攻撃機の夜間雷撃で大破する[注釈 11]。翌年7月にビキニ環礁で行なわれた原爆実験クロスロード作戦)で標的艦となったあと、1948年2月に海没処分された[11]

艦歴

建造

 
1916年12月、竣工時のペンシルヴェニア。アメリカ標準型戦艦の特徴である籠マストを備える。

イギリス海軍が建造した新型戦艦(クイーン・エリザベス級戦艦など)は15インチ(38センチ)砲を採用し、アメリカ海軍も欧州新鋭戦艦に対抗可能な戦艦の建造に乗り出した[14]。基本的にネバダ級戦艦の設計を踏襲したが、火力、副砲や対空砲、水中防御力、機関部など、細かい部分で改良が加えられている[33]。またペンシルヴェニアは艦隊旗艦としての運用を前提とし、艦橋や司令塔の仕様が姉妹艦アリゾナと異なっていた[34]。機関部も違う種類の機械を搭載しており[18]、本艦は馬力で約1割ほど劣るものの、航続力や速力に大きな差はなかった[1]

ペンシルヴェニア級の建造内示は、1912年(大正元年)8月22日に示された[35]。予算の承認で手間取ったあと、ペンシルベニアはバージニア州ニューポート・ニューズニューポート・ニューズ造船所で建造することになった[36]。1913年(大正2年)10月27日に起工、1915年(大正4年)3月16日にルイス・J・コルブ大佐の娘エリザベス・コルブによって命名、進水した。1916年(大正5年)6月12日、初代艦長(ヘンリー・B・ウィルソン)(英語版)大佐の指揮下就役した。就役時は世界最大の戦艦であり、それまで世界最大戦艦であった日本海軍扶桑型戦艦と比較すると、速力で劣るが、砲撃力は同等(14インチ砲合計12門)、防御力では優っている[17]

第一次世界大戦

 
後方から見たペンシルベニア。

就役後ペンシルベニアは大西洋艦隊所属となり、1916年(大正5年)10月12日にヘンリー・T・メイヨー少将によって戦艦ワイオミング (USS Wyoming, BB-32) に代わって大西洋艦隊の旗艦となった[37]。1917年(大正6年)1月、ペンシルベニアはカリブ海での演習に出発した。4月6日に母港ヨークタウンに帰還。この日、アメリカはドイツ帝国に対し宣戦布告し、大戦に参戦した。ペンシルベニアは重油専焼であり、タンカーの余裕がなかったためイギリスには派遣されなかった[注釈 12]。そのため、ペンシルベニアはチェサピーク湾ロングアイランド湾で訓練などを行っていた。その間ノーフォーク、ニューヨークでオーバーホールもおこなわれた。兵装に大きな変化はない[38]

ヨークタウン在泊中の8月11日、ウッドロウ・ウィルソン大統領が艦隊ヨットメイフラワー (USS Mayflower, PY-1) でペンシルベニアを訪問。ペンシルベニア乗員は総員登舷礼でウィルソン大統領を出迎え、ウィルソン大統領は12時15分に名誉称号を艦長に贈った。

戦間期

第一次世界大戦終結後の1918年(大正7年)12月2日、ペンシルベニアはスタテンアイランド(トンプキンスヴィル)(英語版)沖に向かい、(大統領旗)(英語版)を翻した上で、10隻の駆逐艦とともにウィルソン大統領を乗せた輸送艦ジョージ・ワシントン (SS George Washington) を護衛し、4日11時にフランスのブレストへ向けて出発。ペンシルベニアは登舷礼を行って21発の礼砲を発射し、一団の先頭に立ってジョージ・ワシントンを先導した。12月13日、一行はブレストに到着し、登舷礼で錨地に向かうジョージ・ワシントンを見送った。翌14日、ペンシルベニアはニューヨークへ向けて出港、25日に到着した。

1919年(大正8年)2月、ペンシルベニアは艦隊訓練のためカリブ海に出動。晩春にニューヨークに戻った後、メイヨー少将は大西洋艦隊司令長官の座を中将に昇進したウィルソン艦長に譲った。

7月8日、トンプキンスヴィルに在泊中のペンシルベニアは、ウィルソン大統領の閣僚であるトーマス・R・マーシャル副大統領ジョセファス・ダニエルズ海軍長官カーター・グラス財務長官(ウィリアム・ウィルソン)(英語版)労働長官ニュートン・ベイカー陸軍長官(フランクリン・レーン)(英語版)内務長官、それに(ジェームズ・「チャンプ」・クラーク)(英語版)下院議長の一行を乗せニューヨークに向かった。10時、僚艦オクラホマ (USS Oklahoma, BB-37) が護衛する、大統領旗を翻すジョージ・ワシントンと会合。ペンシルベニアは登舷礼を行った上でオクラホマから護衛の任務を引き継ぎ、途中で賓客を移動させた上でニューヨークに入港した。

1920年(大正9年)1月7日、ペンシルベニアはカリブ海での恒例の艦隊訓練のためにニューヨークを出港。4月26日にニューヨークに戻ったあと、補助的な訓練に励んだ。1921年(大正10年)1月17日、ペンシルベニアはパナマ運河に向けてニューヨークを出港。1月20日、パナマのバルボアに到着。太平洋艦隊の部隊に加わり旗艦となった。1月21日、艦隊はバルボアを出発して、1月31日、ペルーのカヤオに到着した。2月2日、ペンシルベニアは出港、2月14日にバルボアに戻った。それからグアンタナモ湾を拠点にし、その間に短期間の訓練をおこなった。4月28日ハンプトン・ローズに帰投。その道中、ペンシルベニアはメイフラワーを追い抜いた際、21発の礼砲でメイフラワーに乗艦中の海軍長官、作戦部長、海軍次官補に対し敬意を表した。次いで、11時40分にウォレン・ハーディング大統領がペンシルベニアに乗艦。彼の旗がメインマストに翻されたが、旗の状態があいにく良くなかった。

1922年(大正11年)8月22日、ペンシルベニアはバージニアビーチ(リーンレヴン・ローズ)(英語版)を出港し太平洋艦隊に合流。9月26日にカリフォルニア州サンペドロに入港し、以後1929年までカリフォルニア、オレゴン州、パナマ運河沖に至る海面での主要演習および、カリブ海とハワイ間の航海演習に明け暮れた。その間の1925年4月15日、ペンシルベニアは艦隊とともにサンフランシスコを出港した。ハワイ海域での軍事演習を終えると7月1日にホノルルを出港。オーストラリアニュージーランドを訪問し、メルボルンウェリントンに寄港した。9月26日にサンペドロに帰投した。

1929年(大正14年)1月、ペンシルベニアはパナマを拠点にグアンタナモ湾で航海演習を行い、演習終了後にフィラデルフィア海軍造船所に回航され、2年にわたって近代化のための長期オーバーホールに入った[39]。艦前後の籠マストを撤去して、射撃指揮所を備えた三脚檣に換装したことにより、外観が大きく変化した[19]。艦の内部も、ボイラーとタービンの換装による航続力の延伸、バルジの装着、増加装甲と艦内構造の見直しによる防御力の改善が図られた[40][注釈 13]。このオーバーホールで、副砲の(51口径5インチ砲)(英語版)と7.6ミリ機銃が、8基の(25口径5インチ砲)(英語版)[注釈 14]に取り替えられた。オーバーホールを終えたペンシルベニアは1931年(昭和6年)5月8日にグアンタナモ湾への遠洋航海に出発。一旦帰投後、8月6日に再び出港し、グアンタナモ湾を経てサンペドロに向かい、同地で太平洋艦隊に合流した。

1931年(昭和6年)から1941年(昭和16年)にかけて、ペンシルベニアは西海岸海域やハワイ海域、アリューシャン群島海域で、カリブ海でのパターンと同様に軍事演習に艦隊訓練にと定期的に訓練を繰り返した[注釈 15][42]。 1934年には戦闘艦隊 (Battle Fleet) 旗艦としてジョセフ・M・リーブス大将が座乗した[注釈 16][注釈 17]

その間、ペンシルベニアはRCA社製の(CXAM レーダー(初期型))(英語版)を装着する14隻の艦艇の1隻となった。また、ピュージェット・サウンド海軍造船所にて25口径5インチ砲を4基増設し、25口径5インチ砲の数は合計12基となった。1941年(昭和16年)1月7日、ペンシルベニアは第1任務部隊および第5任務部隊とともにハワイに向かい、ハワイに到着した後は第18任務部隊とともに西海岸への往復航海を実施した。

1941年(昭和16年)2月1日、太平洋艦隊司令長官ジェームズ・リチャードソン大将は太平洋艦隊の駐留地問題でフランクリン・D・ルーズベルト大統領と対立したため更迭され、後任にはルーズベルト一派のハズバンド・キンメル大将が就任した[45]。キンメルはペンシルベニアに自身の将旗を翻した[46]。また本艦の艦長としてチャールズ・M・クック・ジュニア大佐が就任した。

第二次世界大戦

 
真珠湾攻撃後のペンシルベニア。手前は駆逐艦カッシン(右)とダウンズ(左)[46]

1941年

12月7日(日本時間12月8日)の真珠湾攻撃の時、標準型戦艦3隻(ペンシルベニア、テネシーカリフォルニア)は戦艦戦隊の第二戦艦戦隊 (Battleship Division 2) を編制していた(真珠湾攻撃、両軍戦闘序列)。このうち太平洋艦隊旗艦を務めていたペンシルベニアは[8][21][22]乾ドックに入渠中である[20][25]。この日、太平洋艦隊旗艦が繋留される埠頭に停泊していたのは、軽巡ヘレナ (USS Helena, CL-50) と敷設艦オグララ (USS Oglala) であった[21]

まず南雲(機動部隊)から第一波攻撃隊が飛来して、航空基地への攻撃を開始した[47]。ペンシルベニアは、真珠湾在泊中の艦艇や、基地港湾施設に襲い掛かる九九式艦爆九七式艦攻に対して対空砲火を撃った最初の艦の一隻だった[46]。だがフォード島に繋留された戦艦列の戦艦群は、雷撃や爆撃により大打撃を受ける[48][49]。海軍工廠の埠頭に繋留されていたヘレナとオグララも雷撃を受けて大破[50]、オグララは浸水がひどくなって転覆した[51]。日本軍雷撃隊は、ペンシルベニアとヘレナを間違えたかもしれない[21]

ペンシルベニアと駆逐艦2隻は(真珠湾海軍造船所)(英語版、ドイツ語版)の第1乾ドック (Drydock Number One) に入渠中だったのが幸いして艦上攻撃機による雷撃こそ受けなかったが[8]、海軍工廠周辺は爆撃と機銃掃射に見舞われた[52][53]。海軍工廠に激しい空襲を敢行したのは、南雲機動部隊の第二波攻撃隊であった[22]。 やがて、一発の爆弾がペンシルベニアのボートデッキを突き破って9番砲塔に命中する。また、ペンシルベニアの前方に入渠していた駆逐艦カッシン (USS Cassin, DD-372) とダウンズ (USS Downes, DD-375) に爆弾が命中し[54]、両艦はひどく破壊された[55][56][注釈 18]。ダウンズに搭載してあった魚雷発射管の一部(およそ1トン)が爆発で吹き飛び、ペンシルベニアに落下して穴を開けた。ペンシルベニアは15名の戦死者と14名の行方不明者、38名の負傷者を出し、それらの中にはペンシルベニアの幹部も含まれていた。空襲が終わったあと、ペンシルベニアは主砲を真珠湾の入口に向けて、日本軍の上陸部隊を警戒した[60]

航行可能だったペンシルベニアは12月20日、サンフランシスコに向けて出港。12月29日に到着し1942年(昭和17年)3月30日までを修理に費やした。この時の修理では[61]、5インチ砲に防盾が設置された他、機銃と新型レーダーが装備された[26]

1942年

4月14日から8月31日までの間、オーバーホールを終えたペンシルベニアは、カリフォルニア沿岸部で慣熟航海と哨戒を行った。6月4日、海軍作戦部長兼合衆国艦隊司令長官アーネスト・キング大将は、1941年12月31日以来太平洋艦隊司令長官として艦隊を率いていたチェスター・ニミッツ大将に(海軍殊勲章)(英語版)を授与するため、ペンシルベニアをその会場とした。次いで、ウィリアム・S・パイ中将指揮下の戦艦戦隊(戦艦7隻)の1隻として、日本軍のアメリカ西海岸攻撃阻止のために行動した(両軍戦闘序列)。ミッドウェー海戦がアメリカの勝利で終わった後、部隊はサンペドロへ向かった。

8月1日、ペンシルベニアは真珠湾に向けてサンフランシスコを出港し、8月14日に真珠湾へ到着した。射撃訓練の他、空母機動部隊に属してハワイ周辺の訓練や警戒に当たった。10月4日、ペンシルベニアはサンフランシスコに戻り、メア・アイランド海軍造船所で1943年(昭和18年)2月5日まで近代化改装を行った[61]。改装は戦艦ネバダを参考にしたもので、従前の25口径5インチ砲と51口径5インチ砲は全て撤去され、代わりに38口径連装5インチ砲や40ミリ機関砲が搭載された[28]。また、対空射撃を考慮して後部三脚檣が撤去され、新しい構造物と簡素な棒檣が装備された[62]。改装終了後、ペンシルベニアはカリフォルニア沿岸で訓練や哨戒に従事した。

1943年

 
ペンシルベニアの支援の下、キスカ島上陸に先立ち、アダック島に上陸するアメリカ軍。

4月23日、ペンシルベニアはアリューシャン方面の戦いに参加すべくアラスカへ向かった[63]。4月30日、ペンシルベニアは(コールド湾)(英語版)に入り、5月11日から12日の間、第7歩兵師団によるアッツ島攻略作戦 (Operation Landcrab) を支援するため、アッツ島(ホルツ湾)(英語版)およびシカゴ・ハーバーを砲撃した[64][注釈 19]5月12日18時25分、哨戒機から2本の魚雷がペンシルベニアの方に向かっていると警告を受け、ペンシルベニアは回避に成功した[67]。駆逐艦エドワーズ (USS Edwards, DD-619) とファラガット (USS Farragut, DD-348) は攻撃した潜水艦を捜索する[4]。10時間に及んだ対潜攻撃により、浮上してきた日本海軍の潜水艦伊31を撃沈した[68]。アッツ島地上部隊は米戦艦に魚雷2本命中を報告しており[69][注釈 20]、ペンシルベニアを雷撃したのは伊31と思われる[4]。 5月14日朝にも再度雷跡が発見されたので、護衛のアメリカ駆逐艦は敵潜水艦に爆雷攻撃を行った[4]。アッツ島地上部隊は日本時間14日午前10時30分ころ乙巡洋艦に水柱2本昇騰するのを確認し[4]、日本時間16日6時30分には伊35がアメリカ軽巡洋艦を雷撃して魚雷2本命中を報告している[71] 。ペンシルベニアを雷撃したのは伊35とみられる[4]。アッツ島周辺海域に潜んでいた伊34伊35[72][71]、損傷しつつ幌莚に帰投した[73]

同じ日の朝、ペンシルベニア搭載のOS2U キングフィッシャー観測機は水上機母艦カスコ (USS Casco, AVP-12) がアッツ島を攻撃する手助けをした。5月14日午後、ペンシルベニアはホルツ湾西岸に対して3度目の艦砲射撃を実施した。5月17日、キンケイド提督はロックウェル部隊をアッツ島周辺の危険海域から撤収させることを考慮する[74]。ペンシルベニアは5月19日までアッツ島近海で行動し、アダック島を5月21日に出港して28日にピュージェット・サウンド海軍造船所に到着した。

整備の後、8月7日にはアダック島に戻る[注釈 21]キスカ島攻略部隊指揮官フランシス・W・ロックウェル中将の旗艦として8月13日に出撃し[76]、8月15日にキスカ島の西部海岸に対して上陸作戦を行った(コテージ作戦)[77]。この時点で、日本軍はキスカ島から撤退を完了していた[78]。上陸部隊は誤射や同士討ちの末に、キスカ島を占領する[77]。ペンシルベニアはキスカ島沖を哨戒した後[注釈 22]、8月23日にアダック島に帰投。その後真珠湾に向かい、9月1日に到着した。

ペンシルベニアは真珠湾で790名の便乗者を乗せ、9月19日にサンフランシスコに向けて出港し、9月25日に到着。10月6日には真珠湾に戻り、ハワイ海域で演習を繰り返した。その後、ペンシルベニアはギルバート諸島攻略のガルヴァニック作戦に投入されることとなり、リッチモンド・K・ターナー中将の旗艦として北攻略部隊を率い、11月10日にブタリタリ(マキン島)に向けて出撃した。任務部隊は、ペンシルベニアを含む4隻の戦艦、4隻の巡洋艦、それに3隻の護衛空母、その他駆逐艦、輸送艦で構成されており、11月20日朝に南東の方角からブタリタリに接近していった(連合軍海軍部隊、戦闘序列)。ペンシルベニアはブタリタリに対して13,000メートルの距離から主砲による艦砲射撃を行った。

11月24日朝、総員配置を令する前だったペンシルベニアは、右舷艦首に異変を感じた。護衛の駆逐艦もペンシルベニアと同じような異変を感じたので、艦隊はただちにコースを変えた。爆発が起きてから数分の間に大火災が周辺を明るく照らし出し、その発生源が護衛空母リスカム・ベイ (USS Liscome Bay, CVE-56) に対する伊175の雷撃によるものだったことが知らされた。リスカム・ベイは沈没し[79]、支隊指揮官ヘンリー・M・ムリニクス少将や、ドリス・ミラー[注釈 23]を含む多数の死傷者を出した[82]。11月25日から26日の夜間には日本の雷撃機による夜襲が行われたが、損害はなく敵を追い払った[83]

1944年

 
浮きドックに入渠中のペンシルベニア、1944年[84]

1944年(昭和19年)のペンシルベニアは、クェゼリンの戦い参加から始まった。1月31日、クェゼリン環礁に近接したペンシルベニアは艦砲射撃を行い、翌2月1日の上陸への下ごしらえを行った。2月3日夜、ペンシルベニアはクェゼリン近くの環礁内に投錨したが、この頃には戦いの帰趨は明らかだった。ペンシルベニアは弾薬補給のため、占領したばかりのマジュロ環礁に帰投した。

2月12日、ペンシルベニアはクェゼリンの戦いに続いて行われたエニウェトクの戦いに出動。ペンシルベニアは大胆にもエニウェトク環礁内に入り、エンチャビ島の日本軍守備隊に対して事前の艦砲射撃を行い、2月18日の上陸作戦本番では援護射撃を行ってエンチャビ島確保に貢献した。ペンシルベニアはメリレン島への艦砲射撃のため環礁内を航行し、2月20日から21日にかけて艦砲射撃を行った。攻撃前までは、メリレン島はヤシで覆いつくされていたが、艦砲射撃の結果、メリレン島には草木は一本も残らなかった。2月22日朝、ペンシルベニアは事前砲撃で翌日の上陸のお膳立てをした。

ペンシルベニアは3月1日にマジュロを出港し、ニューヘブリディーズ諸島エファテ島に向かった。4月下旬までエファテに在泊した後シドニーに向かい、4月29日に到着した。ペンシルベニアは5月11日にエファテに戻り、次いでフロリダ諸島パービス港に向かい、同地で射撃と上陸作戦の訓練に参加した。訓練終了後、ペンシルベニアは5月27日にエファテに寄港し、弾薬を補給した後6月2日に出港して翌6月3日にロイに到着した。

6月10日、ペンシルベニアは他の戦艦、巡洋艦、護衛空母および駆逐艦と合同し、マリアナの戦いのため出動した。その夜、護衛の駆逐艦は90度の方角に何かしら音が聞こえたので、警戒のため一斉回頭を命じた。しかし、その途中でペンシルベニアは高速輸送艦タルボット (USS Talbot, APD-7) と衝突し、小破した。タルボットは修理のため部隊から外されエニウェトクに回航された。

6月14日、ペンシルベニアはテニアン島北東海上に現れ、翌15日に予定されていたサイパン島上陸のための援護としてテニアン島に対して艦砲射撃を行った。6月16日にもグアムオロテ岬に対して艦砲射撃を行い、次いでサイパン近海に移動した。6月25日、ペンシルベニアは一旦作戦海域を離れてエニウェトクに向かい、短期間の滞在の後に7月9日に出港して作戦支援を再開した。

7月12日から14日にかけて、ペンシルベニアはグアムに対して事前砲撃を行い、サイパンで弾薬を補給した後、7月17日にはグアム沖に戻り、砲撃を再開。この砲撃は7月20日まで続けられた。ペンシルベニアはこのグアム攻撃で、他の艦艇よりも多くの弾薬を消費し、“Old Falling Apart” (古いボロ椅子)というニックネームを頂戴したが、そのニックネームに違わずペンシルベニアは多量の金属の雨嵐を降らせたので、その影響でペンシルベニアが壊れそうに見えたほどだった。

7月21日、ペンシルベニアはハガニア沖とオロテ岬の間に位置し、上陸部隊の進撃に先立って艦砲射撃を行った。上陸部隊が橋頭堡を築いた後も、ペンシルベニアは8月3日まで上陸部隊の援護を行った。その後、ペンシルベニアはエニウェトク、次いでニューヘブリディーズに帰投し、ガダルカナル島とフロリダ諸島で上陸作戦の演習を行った。

9月6日、ペンシルベニアは火力支援部隊の一艦としてペリリューの戦いに参加すべく出港した。9月12日から14日まで、ペンシルベニアはペリリュー島を集中的に砲撃し、9月15日の上陸当日には火力支援を行った一方で、アンガウル島に対しても砲撃を行い、同島の防御砲を破壊炎上させて大打撃を与えた。

9月25日、ペリリュー、アンガウルの両戦いに参加したペンシルベニアは前進基地マヌス島に到着し、同地の浮きドックで整備を行った。10月12日、ペンシルベニアはトーマス・C・キンケイド中将率いる第7艦隊の指揮下に入り、ジェシー・B・オルデンドルフ少将の火力支援部隊の戦艦6隻のうちの1隻としてフィリピンの戦いに参加すべく出撃した。10月18日、ペンシルベニアはレイテ湾に到着し、火力支援を行って海岸偵察、湾内掃海を助けた。火力支援は10月20日の上陸当日をはさみ、10月22日まで昼夜問わず行われた。

10月24日、日本艦隊が徐々にレイテに接近しているのが分かった。これに対抗するため、第7艦隊、第3艦隊は総力を挙げてこれを阻止すべく行動に出た[85]レイテ沖海戦[86]。ペンシルベニアと他の5隻の戦艦はスリガオ海峡北口において、オルデンドルフ少将直率の巡洋艦部隊とともに哨戒を行っていた[87](両軍戦闘序列)。その夜、スリガオ海峡南部に配備された魚雷艇が、西村祥治中将率いる艦隊の接近を察知し、通報する傍ら第一撃をかけた[88]。これに続いて駆逐艦部隊が突撃、雷撃により戦艦扶桑と駆逐艦3隻(朝雲山雲満潮)を撃沈するか戦闘不能にした[89]。オルデンドルフ少将は丁字戦法を実践すべく、直卒の巡洋艦部隊を西村艦隊の両側にはりつかせ、ペンシルベニア以下の戦艦部隊は西村艦隊の頭を押さえるべく行動した[89][注釈 24]10月25日3時53分、戦艦ウェストバージニア (USS West Virginia, BB-48) の第一弾を始めとして戦艦と巡洋艦の一斉砲撃が始まった。この時点での西村艦隊健在艦は、西村中将の旗艦山城重巡洋艦最上、駆逐艦時雨だけになっており、集中砲撃により山城は沈没、西村中将は戦死した[91]。最上と時雨は辛くもスリガオ海峡から脱出したが、取り残された駆逐艦朝雲が袋叩きにされて沈没した[92]。最上は後続の志摩清英中将率いる第二遊撃部隊の重巡洋艦那智と衝突した上、さらに護衛空母部隊から空襲を受けて航行不能になり、自沈した[92]

ところが、ペンシルベニアは戦艦同士の最後の砲戦[93] であるこの海戦では全く活躍しなかった。搭載していたレーダーが旧式だった上、海戦時に他の艦に射界が邪魔され、一回も発砲することができなかったのである[94]

10月26日、ペンシルベニアは駆逐艦とともに、10機の日本機を迎え撃ち、そのうちの4機を撃墜した。10月28日夜にも、夜間雷撃を試みた日本機を撃墜した。ペンシルベニアは11月25日までレイテ湾に留まり、その後マヌス島とパラオコッソル水道で弾薬を補給した。

1945年

 
リンガエン湾に向かうペンシルベニア。後続はコロラドルイビルポートランドコロンビア。1945年1月。

1945年(昭和20年)1月1日、ペンシルベニアはオルデンドルフ中将の火力支援部隊に加わり、リンガエン湾に向かった(リンガエン湾攻略作戦)。アメリカ艦隊は1月4日から5日にかけて神風特攻隊の攻撃に晒され、スールー海を航行中に護衛空母オマニー・ベイ (USS Ommaney Bay, CVE-79) が旭日隊(彗星2機)、一誠隊(2機)、進襲隊(九九式襲撃機1機)のいずれかの命中を受けて沈没し[95]、他にも大なり小なりの損害が出た[96]

1月6日朝、ペンシルベニアはリンガエン湾口のサンディアゴ島に対して砲撃を行い、夜には湾内に侵入して掃海作業の支援を行った。1月7日の夜明け、火力支援部隊は大々的に艦砲射撃を行い、翌8日にも行われた。1月9日の上陸作戦当日、ペンシルベニアは強力な火力支援で上陸を援護した。翌1月10日、ペンシルベニアは日本機の空襲を受けたが、4発の至近弾を受けたのみで損害はなかった。午後、ペンシルベニアは海岸付近をうろうろしていた日本軍戦車に対して12発の砲撃を行ってこれを破壊した。またこの日、ペンシルベニアは高速輸送艦クレムソン (USS Clemson, APD-31) と衝突した[97]

1月10日から17日にかけて、ペンシルベニアはリンガエン湾沖の南シナ海で哨戒を行っていた。その後、ペンシルベニアはリンガエン湾で一息ついた後、マヌス島に向かった。2月10日までマヌス島で仮修理を行った後、2月22日に出港し、マーシャル、真珠湾を経て3月13日にサンフランシスコに到着。ハンターズ・ポイント造船所でオーバーホールに入り、徹底的に改修された。主砲はすべて換装され、その砲身のいくつかは、かつての僚艦オクラホマが装備していたものが再利用された。また、対空兵器の増設やレーダー等の機器類の更新も行われた[31]

オーバーホールが終わると、ペンシルベニアはサンフランシスコとサンディエゴの間で試運転を行い、7月12日にサンフランシスコを出港して真珠湾には7月18日に到着した。7月24日、ペンシルベニアは第12.3任務群の一艦として空母カボット (USS Cabot, CV-28) などとともに沖縄に向けて出港。その途中、8月1日にはウェーク島に近接して日本軍守備隊に対して艦砲射撃を行ったが、反撃を受けて損傷した[97]サイパン島で補給を行った後、8月12日中城湾に到着し、戦艦テネシー (USS Tennessee, BB-43) の隣の、これまで軽巡洋艦モントピリア (USS Montpelier, CL-57) が停泊していた錨地に停泊した[98]。その日の夜、鹿児島県の串良基地から[99]第五航空艦隊指揮下の第931海軍航空隊[100]攻撃第251飛行隊所属の艦上攻撃機天山4機が夜間雷撃隊として発進し、中城湾に向かった。21時30分ごろ、中城湾に艦船に空襲警報が発令され、全艦戦闘配置に就いた[98]。22時10分に警報は解除になったが、第95任務部隊の旗艦であったペンシルベニアの艦尾に魚雷1本が命中し、ペンシルベニアは9.1メートルの大穴が開いた。命中箇所は弾薬庫付近だったが、誘爆しなかったのが不幸中の幸いだった[98]。それでも20名が戦死し、10名が負傷。10名の中にはオルデンドルフ中将や艦長も含まれており[101]、オルデンドルフ中将は肋骨を何本か折る怪我をした。

攻撃した天山は無事に串良基地に帰還し、「戦艦らしい一隻に火柱があがるのを認めた」と報告した[102]。結果的に、これが日本の航空部隊が艦船攻撃であげた最後の戦果となったが[103]、これまで火柱や水柱があがった報告が届けば「轟沈、撃沈」と大本営発表などで騒いでいたのがウソのように[104]、第五航空艦隊はこの報告を信じることはなかった[102]

ペンシルベニアは大きく浸水し、2隻のタグボートの助けを借りて懸命に修理を行い、翌日には浅瀬に曳航された。8月15日に終戦を迎えたが、なおも応急修理は続けられた。

戦後

 
クェゼリン環礁で沈みつつあるペンシルベニア。

8月28日[105]、応急修理が終わったペンシルベニアは2隻のタグボートに曳航され中城湾を出港し、9月6日にグアムアプラ港に到着した。ペンシルベニアは同地でドックに入り、魚雷の命中箇所に大きな鋼板があてられた。10月4日、修理が終わったペンシルベニアは軽巡洋艦アトランタ (USS Atlanta, CL-104) [注釈 25]および駆逐艦ウォーク (USS Walke, DD-723) に護衛されて出港したが、10月17日に3番推進軸の調子がおかしくなった。急遽ダイバーが潜って調査したところ、シャフトとプロペラが脱落していた。10月24日、ペンシルベニアはピュージェット・サウンド海軍造船所に到着した。

ペンシルベニアは修理後、1946年(昭和21年)7月のビキニ環礁で行なわれた原爆実験クロスロード作戦)において、僚艦ネバダ[106]航空母艦サラトガ (USS Saratoga, CV-3) や日本海軍の戦艦長門[107]などと共に標的艦となった。同年8月29日に解役、クェゼリン環礁へ曳航され、1948年(昭和23年)2月10日に沈没するまで放射線・構造の研究用に使用された。ペンシルベニアは同年2月19日に除籍された。

ペンシルベニアは第二次世界大戦の戦功により8個の従軍星章を受章した。

脚注

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注釈

  1. ^ アリゾナはパーソンズ式である[1]
  2. ^ 姉妹艦アリゾナ (USS Arizona, BB-39) をネームシップとして[2]アリゾナ型戦艦と表記した資料もある[3]
  3. ^ 戰艦“ペンシルヴアニア Pennsylvania”[9] 主要目{排水量33,100噸 速力21.0節 備砲36糎砲12門 13糎砲12門 起工1913年10月 竣工1916年6月 建造所紐育造船會社} “ペンシルヴァニア”は排水量に於ては米國戰艦中で最大のものである。33,100噸で全長、幅、平均吃水其の他兵装に至るまですべて“アリゾナ”と同一である。これも亦居住性に於ては“アリゾナ”に劣らぬもので、米國主力艦隊の旗艦にはこの艦が度々あてられてゐる。これもカタパルトの位置は三番砲塔の上と艦尾にあるが、米國戰艦のカタパルトはこの装備法に一定してゐるやうである。中部の邊外側に出てゐるのは艦載艇揚降用と砲塔上の飛行機揚収用を兼用したデリツクで艦尾の飛行機は軍艦旗の下のデリツクで揚収するやうになつてゐる。尚この艦の乗組員は艦長以下1,358人が定員となつてゐる。
  4. ^ アメリカ海軍においてペンシルヴァニアと命名された艦艇一覧。先代はペンシルベニア級装甲巡洋艦ペンシルベニア (USS Pennsylvania, ACR-4) で、1911年(明治44年)1月8日にユージン・バートン・イーリーにより世界で初めての着艦実験に成功した[10]。その後、本艦に名前を譲ってピッツバーグ (USS Pittsburgh) となった。
  5. ^ a b c 戰艦“ペンシルヴアニア Pennsylvania”[13] 主要目{排水量33,100噸 速力21.0節 備砲36糎砲12門 12.7糎砲12門 起工1913年10月 竣工1916年6月 建造所ニューポートニュース造船會社} 33,100噸で全長、幅、平均吃水其の他兵装に至るまですべて“アリゾナ”と同一である。“アリゾナ”とは姉妹艦で、米國主力艦隊の旗艦には永い間この艦があてられてゐる。これもカタパルトの位置は三番砲塔の上と艦尾にあるが、米國戰艦のカタパルトは大體この形式のものとなつてゐる。巨大な三脚マストは一寸外には例がない。もともとネバダ級を擴大したもので從つてよく似てゐるが砲2門が多い。戰艦の中でも改装費に最も巨額の費用をかけたものといふ。
  6. ^ 建造時は他の標準型戦艦と同様の籠マストを装備していたが、戦間期の改装時に三脚檣へ換装した[16]
  7. ^ 大西洋艦隊太平洋艦隊、戦闘艦隊など[注釈 5]
  8. ^ 一緒に入渠していたマハン級駆逐艦2隻(カッシンダウンズ)は破壊された[27]
  9. ^ フォード島の戦艦桟橋に繋留されていた姉妹艦アリゾナは[19]九七式艦上攻撃機の水平爆撃により爆沈した[11]
  10. ^ 副砲を撤去して5インチ38口径連装高角砲に換装、艦後部の三脚檣を撤去して簡素な棒マストとなった[19]
  11. ^ 付録第一 昭和二〇・三~八期間における沖繩方面海軍作戦戦果等詳細(米海軍作戦年誌による)[32]
  12. ^ 第6戦艦戦隊に所属し、ドイツ帝国海軍の通商破壊艦に備えていたという[36]
  13. ^ 歴史群像58『アメリカの戦艦』(2007)132頁では、本級が搭載したビューロウ=エクスプレス・ボイラー (Bureau Express boilers) は、自沈処分になったコロラド級戦艦3番艦ワシントン (USS Washington, BB-47) と、ダニエルズ・プランで建造中止になったサウスダコタ級戦艦 (South_Dakota-class battleship) の流用だった記述とする[40]
  14. ^ 第二次世界大戦後期、ガトー級潜水艦などアメリカ海軍の主力潜水艦に搭載された砲である。
  15. ^ 荒天下戰闘訓練に没頭する戰闘艦隊[41] これは戰艦“ペンシルヴアニア Pennsylvania”の36糎巨砲下より見た戰闘艦隊の勇姿である。(中略)1935年度、米國海軍は大略アリユーシヤン群島とハワイを繋ぐ廣大な海面上に於て大演習を實施した。これは現にその大部分が太平洋方面に配備中の全艦隊が参加し、就中攻撃軍はアリユーシヤン群島を根據地とする潜水艦部隊を基幹としたもので、更に戰艦及び航空母艦が附随し、これに對抗するこの寫眞に見える戰闘部隊を防禦軍として決戰を行つたものである。
  16. ^ 東太平洋上を横行する米國艦隊戰闘部隊[43](中略)軍艦は海上で戰爭するばかりではなく平時に於ても實にかうした重大な使命を有することを思ふならば、軍備と云ふものが平戰の時を別にすべきものでは斷じてなく、むしろ平和を愛好する國民こそ必要斯べからざる軍備の充實を圖らねばならぬと云ふも過言ではあるまい。この寫眞最後を進むは戰闘艦隊旗艦“ペンシルヴアニア號”、その檣上に翻へるはリーヴス司令長官の大将旗である。
  17. ^ 戰艦“ペンシルヴニア”と驅逐艦[44] 米國戰闘艦隊旗艦“ペンシルヴアニア Pennsylvania”に坐乗する司令長官リーヴス大将の檢閲を受けつゝある驅逐隊である。黄昏近き米本土の西海岸サンビードロ沖に夕陽をかすかにうけて徐々と進む驅逐隊の姿は、やがて來んときの活躍振りを思はせるものがあらう。/ これ等の驅逐艦はすべて全長95.69米餘、幅9.75米弱、平均吃水2.74米餘、排水量1,190噸級のもので、兵装としては10糎砲4門と8糎高角砲を1門、魚雷發射管は53糎のものを12門有してゐる。/ 他國のものに比し米國の驅逐艦はすでに舊式が殆んど其全部であるが、その隻數は現在既成艦を合計すると實に220餘隻に及んでゐる。尚“ペンシルヴニア”のすぐ上空を飛翔してゐるのは、艦隊航空隊に附属する小型飛行船である。而して米國がロンドン軍縮條約に於て許容されたる驅逐艦の保有量は合計排水量150,000噸である。
  18. ^ 工廠周辺では、浮きドックYFD-2に入渠中の駆逐艦ショー (USS Shaw, DD-373) が被弾炎上したあと大爆発を起こし[57][58]、埠頭繋留中の軽巡ホノルル (USS Honolulu, CL-48) が損傷した[59]
  19. ^ フランシス・W・ロックウェル少将が指揮する戦艦3隻(ペンシルべニア、ネバダアイダホ)、護衛空母ナッソー (USS Nassau, CVE-16) [65]、巡洋艦6隻、駆逐艦19隻、輸送船5隻がいた[66]
  20. ^ (十三日一三三〇頃行動中ノ戦艦ニ対シ水柱二本昇騰続イテ各艦絶ヘズ海面ニ対シ集中射撃ヲ行フ)[70]
  21. ^ この間の7月下旬に、キスカ島を封鎖していたアメリカ艦隊の誤認砲撃が起きた[75](幽霊の戦い)。
  22. ^ 8月18日には、駆逐艦アブナー・リード (USS Abner Read, DD-526) が機雷により大破した。
  23. ^ ドリス・ミラーは真珠湾攻撃時のウェストバージニア乗組員で、ベニオン艦長の救護や対空戦闘での活躍した[80]。その功績により、アフリカ系アメリカ人として初めて海軍十字章を受賞した[81]
  24. ^ 砲撃の邪魔になる駆逐艦部隊は、この時までに後方に下がった[90]
  25. ^ 先代の軽巡アトランタ (USS Atlanta, CL-51) はアトランタ級軽巡洋艦ネームシップ第三次ソロモン海戦で沈没、このアトランタ (USS Atlanta, CL-104) はクリーブランド級軽巡洋艦

出典

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  • ミリタリー・クラシックス編集部、執筆(松代守弘、瀬戸利春、福田誠、伊藤龍太郎)、図面作成(田村紀雄、こがしゅうと、多田圭一)「第二章 アメリカの戦艦」『第二次大戦 世界の戦艦』イカロス出版〈ミリタリー選書6〉、2005年9月。ISBN (4-87149-719-4)。 
  • ドナルド・M・ゴールドスチン、キャサリン・V・ディロン、J・マイケル・ウェンジャー『パール・ハーバー THE WAY IT WAS:PEAL HARBOR』千早正隆(訳)、光人社〈フォト・ドキュメント〉、1991年11月。ISBN (4-7698-0582-9)。 
  • ジョン・ジョーダン『戦艦 AN ILLUSTRATED GUIDE TO BATTLESHIPS AND BATTLECRUISERS』石橋孝夫(訳)、株式会社ホビージャパン〈イラストレイテッド・ガイド6〉、1988年11月。ISBN (4-938461-35-8)。 
  • 「世界の艦船増刊第28集 アメリカ戦艦史」海人社、1990年
  • チェスター・ニミッツ、E・B・ポッター『ニミッツの太平洋海戦史』実松譲、富永謙吾(共訳)、恒文社、1962年12月。 
  • A・J・バーガー『PEARL HARBOR パールハーバー われ奇襲に成功せり』中野五郎 訳、株式会社サンケイ出版〈第二次世界大戦文庫2〉、1984年12月。 
  • 秦郁彦『八月十五日の空 日本空軍の最後』文芸春秋、1978年
  • ジェームズ・J・フェーイー/三方洋子(訳)『太平洋戦争アメリカ水兵日記』NTT出版、1994年、(ISBN 4-87188-337-X)
  • ゴードン・プランゲ『トラ トラ トラ 《新装版》 太平洋戦争はこうして始まった』千早正隆 訳、並木書房、2001年6月。ISBN (4-89063-138-0)。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 沖縄方面海軍作戦』 第17巻、朝雲新聞社、1968年7月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 北東方面海軍作戦』 第29巻、朝雲新聞社、1969年8月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 潜水艦史』 第98巻、朝雲新聞社、1979年6月。 
  • ドナルド・マッキンタイヤー『空母 日米機動部隊の激突』寺井義守 訳、株式会社サンケイ出版〈第二次世界大戦文庫23〉、1985年10月。ISBN (4-383-02415-7)。 
  • 歴史群像編集部編『アメリカの戦艦 「テキサス」から「アイオワ」級まで四〇余年にわたる発達史』学習研究社〈歴史群像太平洋戦史シリーズ Vol.58〉、2007年5月。ISBN (978-4-05-604692-2)。 
  • Myron J. Smith, Jr. "KEYSTONE BATTLEWAGON U. S. S. Pensylvania (BB-38)" Pictorial Histories Publishing Company. 1983年、(ISBN 0-933126-27-1)
  • Robert C. Stern "U. S. BATTLESHIPS in action Part 1" Squadron Signal Publications. 1980年、(ISBN 0-89747-107-5)
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『昭和18.2.1〜昭和18.8.14 太平洋戦争経過概要 その5(防衛省防衛研究所)/18年5月1日〜18年5月17日』。Ref.C16120635700。 
    • 『昭和18.2.1〜昭和18.8.14 太平洋戦争経過概要 その5(防衛省防衛研究所)/18年5月18日〜18年5月31日』。Ref.C16120635800。 

外部リンク

  • Comprehensive Pennsylvania website
  • Maritimequest USS Pennsylvania BB-38 Photo Gallery
  • WWII Battleship Site Entry for USS Pennsylvania
  • NavSource Online: Battleship Photo Archive BB-38 USS PENNSYLVANIA 1914 - 1929
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