ビル・マコーミック(Bill MacCormick、1951年4月15日 - 、ロンドン生まれ)は、イングランドのベーシストおよびボーカリストである。
略歴
ビル・マコーミックは、RAFで一緒に務めた後の1946年に結婚したイーウェンとオルウェン・マコーミックの次男として生まれた。兄のイアン・マコーミック(音楽ジャーナリストにして作家のイアン・マクドナルドとしても知られている)は、1948年に生まれた。ブリクストンの小学校に通った後、2人ともダリッジ・カレッジの自由な環境を手に入れた。そこでビルはフィル・ターゲット・アダムス(現在ではフィル・マンザネラとして知られる)に出会い、彼らは音楽を演奏することに興味を持つようになった。1966年、ビルの母親は、ドラマーであるロバート・ワイアットの母親オナー・ワイアットと一緒に働いており、ビルは彼のバンドであったソフト・マシーンの、キングストン・クームスプリングスで1966年8月に行われた彼らの最初のギグでの演奏を観て、その後、バンドが生活しリハーサルを行っていたウェストダリッジのダルモアロードにあるオナー・ワイアットの家に定期的に訪れるようになった。1968年にフィル・ターゲット・アダムスとビルは、2年後輩であったドラマーのチャールズ・ヘイワード以外は流動的なメンバーとするバンドをダリッジ・カレッジで結成した。プー・アンド・ザ・オーストリッチ・フェザーの名の下で、彼らは学校の周りやパーティでのギグを行った。ビルとフィルは2人とも1969年にダリッジ・カレッジを卒業し、翌年にチャールズ・ヘイワードと再会して、クワイエット・サンと呼ばれるバンドを結成した。彼らはキーボード奏者のデイヴ・ジャレットと、短期間、サックス奏者のデイヴ・モナハンをバンドに迎え入れたが、適切なベース奏者を見つけることができなかった。ドラムを演奏しながら歌うビルは、バンドがリハーサルするためにさまざまな作曲のベース・パートを学び、1971年の夏にバンドが解散するまでベース・プレーヤーとなって演奏を続けた。
バンドの最後のギグの1つは、ポーツマス工科大学でのシンバイオシス (Symbiosis)のサポートであった。このバンドは、ソフト・マシーンを脱退しようとしていたロバート・ワイアットをフィーチャーしており、ワイアットは脱退後、ビルに連絡してマッチング・モウルと呼ばれる新しいバンドでベースを演奏するよう依頼した。そして、故フィル・ミラーと、キャラヴァンのキーボード奏者デイヴ・シンクレアがバンドに加わった。彼らは1971年12月にCBSからのアルバムをレコーディング(1972年4月にアルバム『そっくりモグラ』としてリリースされた)し、1972年2月にデイヴ・シンクレアがニュージーランド出身のキーボード奏者デイヴ・マクレエと交代した。前月にセカンド・アルバム『そっくりモグラの毛語録』をレコーディングした。ビルは1972年秋にフランスのデヴィッド・アレン率いるゴングに短期的に参加した。1973年春、ロバート・ワイアットに進言して、サックス奏者のゲイリー・ウィンドとカーヴド・エアで知られるキーボード奏者のフランシス・モンクマンをフィーチャーした新しいバージョンのマッチング・モウルを結成した。残念なことに、ロバートが関与した重大な事故が起こり、プロジェクトは中止された。その秋、ビルはブライアン・イーノの最初のソロ・アルバム『ヒア・カム・ザ・ウォーム・ジェッツ』の2曲で演奏した。
1974年、ビルは政治への関心を追求することを決め、1975年9月にロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで学ぶようになった。その頃、フィル・マンザネラは彼の最初のソロ・アルバム(『ダイアモンド・ヘッド』)を録音することを計画しており、その際にクワイエット・サンのいまだ録音されていなかったマテリアルを録音するために追加のスタジオ時間を予約していた。オリジナル・バンドが再結成され、イーノと彼の兄弟イアン・マコーミックの支援を受けて、アルバム『メインストリーム』がレコーディングされた。その後もイアンとビルはフィル・マンザネラと一緒に長期にわたって作曲とレコーディングを続け、1977年にリリースされたアルバム『リッスン・ナウ』をプロデュースしている。1976年夏、フィル、ビル、イーノは、ドラマーのサイモン・フィリップス、フランシス・モンクマン、スライドギター奏者のロイド・ワトソンと共に、短命バンドであった801を結成し、3本のギグで演奏し、1976年秋にリリースされたアルバム『801 ライヴ』をレコーディングした。
1977年秋、『リッスン・ナウ』のリリースを促進するために、801の新しいバージョンがツアーのために結成された。これは、フィル、ビル、シンガーでギタリストのサイモン・エイリー、ロキシー・ミュージックのドラマーであったポール・トンプソン、キーボード奏者のデヴィッド・スキナーで構成されていた。1978年初頭、フィル・マンザネラの3枚目のソロ・アルバム『K-スコープ』の制作が始まった。ビルはこの曲の一部を作曲し、その上で演奏し、歌った。ロキシー・ミュージックはその後、『(マニフェスト)』をレコーディングするために再編した。その年の後半、ビルはギタリストのデヴィッド・ローズとキーボード奏者のデイヴ・ファーガソンによって結成されたランダム・ホールドに参加するよう招かれた。元グリッター・バンドのドラマーであるピート・フィップスとともに、彼らは英国でXTCとピーター・ガブリエルをサポートするツアーを行い、北米ではピーター・ガブリエルとツアーを行った。彼らはポリドール・レコードからの2枚組アルバムをレコーディングした。バンドは1980年の夏に解散し、ビルは政治への関心を追求するために音楽活動から引退した。
1973年に自由党に加わり、1974年のロンドンブロム自治区での議会選挙の候補者になった後、彼は1981年にベッケンハムの大ロンドン評議会の候補者として、1982年に自治区の候補者として選出された。1982年、彼はバーモンジーの補欠選挙の自民党候補者として最終選考に残った。サイモン・ヒューズが国会議員として選出された後、彼は選挙区で働き、2つの成功したサウスワーク評議会補欠選挙の代理人を務め、1984年の総選挙では補佐官を務めた。彼が自由党によってロンドン地域代理人として雇われてすぐ、保守党議員であるサー・アンソニー・ベリーがIRAによって殺害されたときの副選挙においてサウスゲート・エンフィールドの代理人を務めた。その後、1985年のブレコンとラドナーの補欠選挙で、彼は自由党が議席を獲得するのを支援する初めてのコンピューター化されたダイレクトメール・キャンペーンを組織した。彼は、グリニッジ、イーストボーン、キンカーディンおよびディーサイドでの勝利を含め、その後の6年間にわたって多数の補欠選挙でコンピューター事業を運営した。彼はまた、1988年のケンジントンの選挙で自民党の最初の補欠選挙の代理人も務めた。新党の金融危機の後、彼はPSメーリングと呼ばれる小さなダイレクトマーケティング会社に加わったが、資金調達と補欠選挙のために自由民主党との契約を継続した。ワシントンDCで開催された雑誌『Campaigns and Elections』主催の政治会議に出席し、同社から1991年のキンカーディンとディーサイドの補欠選挙に先立って電話投票を行うように依頼された。大規模な独立市場調査会社のマーティン・ハンブリンによって、彼は1997年の総選挙の終わりまで自由民主党の調査プログラムの組織と実施を支援した。
1998年、彼は健康上の理由で引退する義務を負った。彼は1990年にブロムリー評議会のアナーリー区のロンドン自治区評議員に選出され、1994年と1998年に議席を保持したが、2002年に政界を引退した。
2006年、彼は『プロ・パトリア・モリ : 1916年7月1日、ゴンムクールにおける第56(第1ロンドン)師団 (Pro Patria Mori: The 56th (1st London) Division at Gommecourt, 1st July 1916)』と題する書籍を出版した。これはソンムの戦いに関する一連の本の最初のものとして計画された。それ以来、彼は『攻撃精神の欠如? 1916年7月1日、ゴンムクールにおける第46(北ミッドランド)師団 (A Lack of Offensive Spirit? The 46th (North Midland) Division at Gommecourt, 1 July 1916)』、および『Zデイ : 1916年7月1日、ボーモン・ハメルとセールの第8軍団 (Z Day: The VIII Corps at Beaumont-Hamel and Serre, 1 July 1916)』を出版している。新刊となる『ソンムへの長い道のり 1870年-1916年 (the Long Road to the Somme 1870-1916)』が2018年に、『Jジャーナル : 1916年7月1日、ソンムにおけるフランス6e軍 (J Jour: The French 6e Armee on the Somme, 1 July 1916)』が2019年に出ている[1]。
2004年のフィル・マンザネラのアルバム『6PM』収録の「Wish You Well」では、マコーミックの亡き兄イアンへのオマージュとしてベース・ソロを演奏した。また、彼は数年間、ジェネシス、フィル・コリンズ、フィル・マンザネラ[2]の公式ウェブサイトのウェブマスターを務めた。
ディスコグラフィ
マッチング・モウル
- 『そっくりモグラ』 - Matching Mole (1972年)
- 『そっくりモグラの毛語録』 - Matching Mole's Little Red Record (1972年)
クワイエット・サン
- 『メインストリーム』 - Mainstream (1975年) ※2011年再発盤にはボーナストラック収録
801
- 『801 ライヴ』 - 801 Live (1976年)
- 『リッスン・ナウ』 - Listen Now (1977年) ※フィル・マンザネラ / 801名義
ランダム・ホールド
- Etceteraville (1979年)
- 『ヴュー・フロム・ヒア』 - The View from Here (1980年)
- Burn the Buildings (1982年)
- Overview (2001年)
その他の参加アルバム
- ブライアン・イーノ : 『ヒア・カム・ザ・ウォーム・ジェッツ』 - Here Come The Warm Jets (1973年)
- フィル・マンザネラ : 『ダイアモンド・ヘッド』 - Diamond Head (1975年)
- ロバート・ワイアット : 『ルース・イズ・ストレンジャー・ザン・リチャード』 - Ruth Is Stranger Than Richard(1975年)
- ブライアン・イーノ : 『ビフォア・アンド・アフター・サイエンス』 - Before and After Science (1977年)
- ブライアン・イーノ : 『ミュージック・フォー・フィルムズ』 - Music for Films (1978年)
- フィル・マンザネラ : 『K-スコープ』 - K-Scope (1978年)
- ロバート・ワイアット : 『ナッシング・キャン・ストップ・アス』 - Nothing Can Stop Us(1982年)
- ゲイリー・ウィンド : 『ヒズ・マスターズ・ボーンズ』 - His Master's Bones(1996年)
- フィル・マンザネラ : 『アーカイヴス・レア・ワン』 - Manzanera Archives: Rare One (2000年)
- フィル・マンザネラ : 『6PM』 - 6PM (2004年)
フィルモグラフィ
- 『カンタベリー・テイルズ ロマンティック・ウォーリアーズIII』 - Romantic Warriors III: Canterbury Tales (2015年) ※DVD
脚注
- ^ 各書籍のタイトルは邦題ではなく内容をわかりやすくするために直訳したもの
- ^ Manzanera.com 2 July 2007 at the Wayback Machine.