ジャパニーズレゲエ (Japanese_reggae)は、日本で発展したレゲエ音楽。「J-レゲエ」[1]、「ジャパレゲ」[2][3][4]と呼称される事もある。
歴史
1970年代
日本では1970年代後半からフラワー・トラベリン・バンドや日本のパーカッショニストペッカーのほか、豊田勇造、上田正樹らがレゲエを取り入れた音楽を制作していた[5]。
しかし、レゲエが勢いを増すのは、1979年にジャマイカの歌手ボブ・マーリーが休暇で日本を訪れたときでした。マーリーはフラワー・トラベリン・バンドのコンサートに参加したいと思っていました。情報を探し、ペッカーに会うと、彼からはグループはすでに解散したことを知らされました。以降二人は仲良くなり、ペッカーはマーリーに、高く評価されている日本人とジャマイカのアーティストのコラボレーションを提案しました。
この提案により1980年にペッカーがアルバム『(ペッカー・パワー)』を、豊田がアルバム『血を越えて愛し合えたら』をそれぞれジャマイカで制作し発表した。さらにペッカーは同年にはジャマイカの「ChannelOne」と「TuffGongStudio」で、『インスタント・ラスタ(InstantRasta)』がレコーディングされました。
これらのアルバムには、日本人アーティストの吉田美奈子、坂本龍一、松岡直也、向井滋春、坂田明、ジャマイカのアーティスト、(アウグストゥス・パブロ)、(スライ&ロビー)、ザ・ウェイラーズ、リコ・ロドリゲス、カールトン・バレット、マーシャ・グリフィスが参加。
これらの2枚のアルバムは、日本とジャマイカの両方のアーティストに影響を与え、日本にレゲエを広めていると見なされています。
1980年代
日本からの最初のレゲエアーティストの中には、ジョー山中とミュートビートがありました。後者のレコーディングは、日本をダブで国際的に有名にし、 (Dry&Heavy)、Fishmans、UAなどの多くのアーティストに影響を与えました。別の先駆的な芸術家はナーキでした。彼はシュガー・マイノットにスカウトされ、ジャマイカで演奏を始め、1985年に日本初のレゲエフェスティバル「Japansplash」を結成しました。
1980年代半ば
ダンスホールスタイルは1980年代半ばにランキンタクシーによって日本にもたらされ、 ロックグループのルースターズは東京スカパラダイスオーケストラ等に影響を与えた。
ジャマイカと日本のアーティスト間の音楽的関係は依然として強く、多くの場合、アーティスト間のコラボレーションがあります。
1990年代ジャパレゲ
ケムリなどのアーティストは曲のいくつかにスカを取り入れました。
2000年代ジャパレゲ流行
2001年には三木道三のシングル「Lifetime Respect」が[6]、2006年にはMEGARYU『我流旋風』と湘南乃風『湘南乃風〜Riders High〜』の2枚のアルバムがオリコンチャート1位を記録した[7]。 1993年に結成されたケツメイシは ヒップホップ[8]に加えレゲエ[8]をとりいれていたが、和風情緒もあり、J-POPチャートで人気となった。
レゲエフェスティバル
最も重要なレゲエフェスティバルは、横浜レゲエフェスティバルまたは横浜レゲエ祭です。これは通常7月から9月に開催され、近くの川崎に移されました。
参考文献
- ^ オリコン (2006年3月3日). “MEGARYUいよいよブレイク!「J-レゲエ」早くも盛り上がりの気配!”. 2010年9月9日閲覧。
- ^ CDJournal.com (2009年8月25日). “ジャケットには“江口ちり”も登場、ジャパレゲ・コンピ『IRIE IRIE』! 発売記念イベント開催も”. 2010年9月9日閲覧。
- ^ ナタリー (2010年3月12日). “ジャパレゲファン必携!LIFE STYLE RECORDS初のベスト”. 2010年9月9日閲覧。
- ^ BARKS (2008年12月9日). “「愛」をテーマにしたジャパレゲ・コンピ”. 2010年9月9日閲覧。
- ^ 印南敦史 (2009年10月). “”. e-days. 2009年10月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年8月26日閲覧。
- ^ “一生一緒に 三木道三、結婚していた”. デイリースポーツ (2009年12月4日). 2010年8月26日閲覧。
- ^ “湘南乃風アルバムヒットの軌跡”. オリコンスタイル (2006年9月20日). 2010年8月26日閲覧。
- ^ a b “ケツメイシ(ケツメイシ)の情報まとめ”. OKMusic. ジャパンミュージックネットワーク. 2022年4月24日閲覧。