『せんせい』は、1989年4月8日に松竹系で劇場公開された日本映画。
せんせい | |
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監督 | 山城新伍 |
脚本 | 重森孝子 |
製作 | トム・ソーヤ企画 |
出演者 | 松方弘樹 梅宮辰夫 千葉真一 渡瀬恒彦 北大路欣也 山城新伍 南果歩 |
音楽 | 津島利章 |
撮影 | 鈴木耕一 |
編集 | 田中修 |
配給 | 松竹 |
公開 | 1989年4月8日 |
上映時間 | 119分 |
製作国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
製作費 | 5億円[1] |
山城新伍・松方弘樹・千葉真一・北大路欣也・梅宮辰夫・渡瀬恒彦の6人が立ち上げた映画プロジェクト「トムソーヤ企画」の第一回製作作品[1][2]。
松竹配給ながら、(東映ヤクザ映画)の主演級俳優の顔ぶれに、プレスシートに「(任侠映画)と思わないでください……。これは、愛あふれる教師の物語です」と但し書きが付いた[3]。
ストーリー
(ウォーターフロント計画)が注目されている東京佃島。昔ながらの風情を残す(下町)にも再開発のうねりが押し寄せ、子供たちの通う中学校は間もなく廃校となることが決まっている。そこで、はみ出し教師と下町っ子たち、さらにその父兄らの交流を描く[1]。
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キャスト
スタッフ
製作
企画
1988年夏に千葉真一が山城新伍に「みんなで映画をやらないか」と声をかけ、製作がスタート[2][4]。言い出しっぺの千葉がプロデューサー、山城が監督になった[4]。出演者を二人で挙げ、「松方弘樹はお祭り男だから入れよう。梅宮辰夫も、北大路欣也も、渡瀬恒彦も入れよう。菅原文太は? いや50(歳)未満にしよう」とこの6人のメンバーが決まった[4]。山城は「個別に仲がいいはあるが、この6人が全員仲がいいというわけではない。こっちとこっちは実は仲が悪いもある。けど、現場で不協和音が出るかもしれないが、一つに固まったときに、妙な音楽になってくれればいい」と話した[4]。山城・梅宮・松方の3人はよく一緒に酒を飲む仲良しだが[4]、山城は「千葉が声をかけなければ、本気と思われず、『そのうちな』になってしまうところだった。千葉が言い出したところがミソで、千葉がえらいマジだぞって、みんなで飲んでみようかとなり、6人で初めて酒を飲み、製作が決まった」と話している[4]。
脚本
松方弘樹の話では、元々は会社の名前の基になった『トムソーヤの冒険』という(タイトル)で、6人は四国出身の幼なじみ。ある奴は殺人犯、ある奴は借金の追い込みがかかり、ある奴は学校の校長先生になっている。そいつらが子どもの頃を思い出して四万十川を筏で大海原へ行くという話で、脚本は倉本聰に頼んでいた[2]。しかし撮影期間が40日は必要と分かり、忙しい6人が筏に乗るのは不可能だろうとなり、企画はボツになり、ホンを変えて『せんせい』になった[2]。打ち合わせは毎回、赤プリでやったが、6人で集まれることはほとんどない。大抵3人で多くても5人。しかし毎回30人は集まった。これは若い衆や手下を連れて来るからで、撮影前に飲み食いの金額が700万円に上った[2]。プロデューサーの千葉は「2億円集める」と宣言したが、全然集まらず[2]。この700万円は松方と山城、梅宮でショーをこなし穴埋めした。結局、松方と山城のマネージャーが各1億円づつ出し合い製作がスタートした、などと話している[2]。
先生を題材とした理由は6人で話しているうち、当時の教育、とりわけ先生がさっぱり子供に尊敬されていない現状に不満を覚えており、先生を題材にすることになったとされる[1]。
製作進行
全員東映育ちのため、みんなで岡田茂東映社長に挨拶にいって仁義を通そうとなった[4]。しかし山城は全員で行ったら、意志の統一が出来ていて本気でやると岡田が察知し、「じゃあウチでやれ」と言われ、(三角マーク)が付いて「深作欣二か工藤栄一で撮れや」などと言われるだろうと予想し、それで東映映画になるのなら6人集まった意味がないと、山城と松方のマネージャー・川野知介(川野孝右)の二人で岡田に会いに行った[4]。岡田に映画製作を伝えると、この6人で映画が出来ると信じてもらえず、「おう、やれや、何でも協力してやる。何かあったら言ってこい。撮影所はウチ使えや」と言われた[4]。自分たちの会社「トムソーヤ企画」で撮影を進めていたら、岡田の耳に入り、岡田が激怒し、部下に「何でお前ら知らんかったんや!」と怒鳴ったが、「山城が社長に断りに来たじゃないですか」と言い返され、「何かで東映使わせえや!」と社長命令が出て、大泉撮影所を使うことになった[4]。東映色強すぎのこのメンバーでは、東映カラーの払拭を目指しても限界があった[4]。渡瀬は生涯東映に所属した俳優なので[5]、6人で行っていたら、内容が変わっていたかもしれない。「不良少年にミコシなんか作れるわけないよ」と言われたことが悔しく、打ち上げでは酒を飲みながら全員感激で涙ぐんだ[4]。
「トムソーヤ企画」は日本映画の再生を目指し、6人で1987年夏に結成した製作会社で[1]、社長は梅宮[1]。本作はその第一弾の自主製作となる[1]。製作費5億円[1]。山城は「我々で出し合ったクリーンなお金」と話した[1]。
山城は「僕は、日活の連中のように『みんなで映画やろうぜ』っていうのは大嫌いなんですよ。仲間うちで集まって映画作ったって、観客にとっては、だから何なの?ということになる」「梅宮が英語の先生、千葉が社会科の先生、松方が数学の先生、渡瀬が国語の先生っていうだけで、非常に不真面目だと思うんですよ。いわゆる"(聖職)"という意味では相反する人達だからね。ただ、加藤剛や役所広司が演るんだったら、俺たちの音階とは違う。だから不良性感度、不真面目な部分は四人が先生を演るということだけで充分にあるから、観た人に『こんなに真面目にオーソドックスに撮っているのか」と思わせる、もうこれしかないいな、と思ったんです」「日本映画というか、日本の娯楽の原点って、煎じ詰めりゃ、"泣かせます""笑わせます"しかないと思うんです。あえてそこに挑戦してみたかった」[4]、当時はテレビドラマを映画化する傾向が増え始めた頃だったが[4]、「僕は有料入場者だから言わせてもらうけど、テレビでやった企画をテレビ以下のキャスティングで見せてるのあるでしょう。対抗策としてどの画面も知ってる顔で埋めてやろうという、30年もやって来たプロの映画俳優というか、娯楽俳優の気概というものを見せたかった」などと述べている[4]。
局中法度
映画は他愛もないことで空中分解することも多く、この6人では製作途中での空中分解も予想されたため、これを心配した梅宮が新選組のような「(局中法度)」を作ろう」と言い出した。山城も賛同し、一人二つづつ、「監督の権限は絶対」「出番の数に文句を言わぬこと」「互いの演技について批判せぬこと」「シナリオに身勝手な文句をつけぬこと」「ギャラは6人一律にすること」「年功序列でモノを言わぬこと」「相手役の女優に過不足は言わぬこと」「撮影中は品行方正を守ること」「タイトル順はアミダで決めること」「キャバレーの仕事を入れないこと」などを出し合った[1][4]。松方は「室田さんは酒ばっかり飲んでるし、渡瀬も千葉さんも辰二イも監督しだすし、それで毎日酒盛りですよ。こりゃダメだって思ったね」と話している[2]。
6人以外のキャスティング
山城はロン・ハワード監督が『コクーン』で、ドン・アメチーやヒューム・クローニンといった往年の大スターを起用するのが羨ましく、ラストの祭りの場面に水島道太郎に出てもらった[4]。江戸家猫八の演じた用務員は、当時テレビでは出せなくなっていたが[4]、映画では出せたため[4]、山城が三木のり平に演ってもらいたくて頼んだが断られた[4]。三木以外も山城が監督と伝えると断った役者もいたという[4]。
撮影
6人は全員忙しく全員一ヶ所に集まったのは4日だけ[4]。特に千葉は『将軍家光の乱心 激突』の撮影中で忙しかった[4]。但し、番宣には6人揃って当時のテレビ等にたくさん露出した[6]。
1990年1月で取り壊しを予定していた東京都中央区佃の中央区立佃島小学校を「佃島第二中学校」としてロケを行った[3][7]。
音楽を『仁義なき戦い』で有名な津島利章に頼み、サービスカットとして梅宮のシーンで『(仁義なき戦い』のテーマ)を流す[4]。
宣伝
松竹の奥山融から「追加の宣伝費8000万下さい」と請求されたため[2]、松方が原ヘルス工業の原全三郎社長に「CMをやらせて下さい」と頼み[2]、CM出演料で借金を補填した[2]。渡瀬は当時バスクリンのCMに出演していたため参加しなかったが[2]、残りの5人で同社の商品(超音波温浴器)「バブルスター」のCMに出演した[2]。松方は誰も借金を返そうとせず、宴会のときだけ来る人にハラが立ったと話している。それで船頭が多いとダメだと学習し、『首領になった男』は自分一人で作ったと話している[2]。
作品の評価
興行成績
元東映スターが作った映画として「作品内容も良い」と評され[6]、パブリシティもよく効き、話題を呼んでいたため、松竹も映画関係者も来るのではと予想した[6]。封切初日だけは大入りで、梅宮は「これは客が入るぜ!」とベントレーを購入した[2]。しかし後が続かず、(配収)1億5000万円に終わった[6]。『キネマ旬報』は敗因として「あれだけパブが効いていれば、悪くても3億円は来るだろうという期待はあった。それが全然来なかったというのは企画の問題しかないのでは。松竹の宣伝担当に聞いたら、中・高校生から全く関心を持たれなかったらしい」「テレビで先生ものは多いし、先生自身に対する関心もないのではないか」「(タイトル)もまずかったかもしれない」「あのメンバーであまりにもマジな映画を作りすぎたということもあるのでは」「あのメンバー自体がいまの若い人にはそれほど関心がないということもあるかもしれない」などと評した[6]。
受賞歴
脚注
- ^ a b c d e f g h i j 「シナリオボックス 東映出身スター、邦画再生に一肌 自主作品『せんせい』製作へ」『シナリオ』1988年11月号、日本シナリオ作家協会、101頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o ギンティ小林・市川力夫「Hiho VIP INTERVIEW 松方弘樹」『映画秘宝』2013年5月号、洋泉社、68–69頁。
- ^ a b 「本誌・特別インタビュー 松竹専務取締役 大谷信義氏 『松竹、1989年ラインアップ編成 外部と積極提携し得点力をアップ!!」『映画時報』1989年12月号、映画時報社、12頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 黒井和男「編集長対談 ゲスト 山城新伍 『俺たちの〈音階〉で作ったオーソドックスな映画』」『キネマ旬報』1988年1月上旬号、キネマ旬報社、50–55頁。
- ^ “渡瀬恒彦 逝去について”. 東映マネージメント (2017年3月24日). 2022年12月28日閲覧。
- ^ a b c d e 脇田巧彦・川端靖男・斎藤明・黒井和男「映画・トピック・ジャーナル 『せんせい』の絶不調の要因を探ってみると」『キネマ旬報』1989年6月上旬号、キネマ旬報社、160-161頁。
- ^ (インターネットアーカイブ)
外部リンク
- せんせい - allcinema
- せんせい - KINENOTE
- せんせい - MOVIE WALKER PRESS
- せんせい - 映画.com