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菊地常夫

菊地 常夫(きくち つねお、1949年6月11日 - 2022年5月23日)は、将棋棋士。2008年、引退。廣津久雄九段門下。(棋士番号)は119。静岡県熱海市出身。

 菊地きくち 常夫つねお 八段
名前 菊地きくち 常夫つねお
生年月日 (1949-06-11) 1949年6月11日
没年月日 (2022-05-23) 2022年5月23日(72歳没)
プロ入り年月日 1975年6月19日(26歳)
引退年月日 2008年3月31日(58歳)
棋士番号 119
出身地 日本静岡県熱海市
所属 日本将棋連盟(関東)
師匠 廣津久雄九段
段位 八段
棋士DB 菊地きくち 常夫つねお
戦績
(一般棋戦)優勝回数 1回
通算成績 356勝503敗(0.4144)
竜王戦最高クラス 4組
順位戦最高クラス C級1組
2022年5月26日現在
(テンプレートを表示)

棋歴

10歳のとき、同級生から将棋を教わる[1]

奨励会への入会は1965年。当時は、ライバルの有野芳人と1日100局指すという熱の入れようであった[2]

1969年度後期から(旧制度の三段リーグ)(奨励会A組)で指すが、同制度が廃止されるまでの9期・4年半、四段昇段(プロ入り)をすることができなかった。この間、奨励会員であるにもかかわらず、第15回(1971年度)古豪新鋭戦で優勝している。

その後、三段で12勝3敗を記録し、1975年6月19日に26歳でプロ入りを果たす。

プロ1年目(1975年度)は、第15期十段戦と第24回王座戦で一次予選を突破、第3回名棋戦でベスト8進出、第2期棋王戦丸田祐三 を破るなどして、上々のスタートを切る。

当時、名人戦順位戦の主催紙が朝日新聞社から毎日新聞社に移行する関係で、順位戦が1977年度に再開されるまで待たされる。その間、菊地(棋士番号119)と同時昇段の伊藤果(同118)から松浦隆一(同132)まで15人が次々とプロ入りする。その中には、中学生の谷川浩司(同131)や後にタイトルを獲る田中寅彦(同127)もいた。これにより、C級2組の人数は19名から33名に膨れ上がった。

しかし、菊地は初参加の第36期C級2組順位戦(当時の名称は「昇降級リーグ戦4組」)で10戦全勝の成績を収め、1期でC級1組へ上がる。また、この1977年度には、全棋戦を通して27勝・7割近い勝率を挙げる。

第1期(1988年度)竜王戦5組で師匠の廣津を破るなどして3位となり、4組へ昇級。

1996年度には全棋戦を通して16勝を挙げ、久々に勝ち越す。

1998年に順位戦で(フリークラス)へ陥落。以降10年間、順位戦に復帰することができず、2008年に(引退)となった[3]

2022年5月23日死去。享年72歳[4]

棋風

居飛車振り飛車のどちらも指し、四間飛車矢倉三間飛車が多い。

攻守のバランスが取れているが、どちらかと言えば受け将棋である。

人物

昇段履歴

昇段規定は、将棋の段級 を参照。

主な成績

優勝

優勝合計 1回

在籍クラス

  • 竜王戦 自己最高4組
  • 順位戦 自己最高C級1組

表彰

  • 現役勤続25年表彰(2000年)

脚注

  1. ^ 平成10年版「将棋年鑑」
  2. ^ 将棋世界」2000年1月号付録
  3. ^ “2008年3月31日付引退|将棋ニュース|日本将棋連盟”. 日本将棋連盟 (2008年4月1日). 2017年8月26日閲覧。
  4. ^ “訃報 菊地常夫八段|将棋ニュース|日本将棋連盟”. 日本将棋連盟 (2022年5月26日). 2022年5月26日閲覧。
  5. ^ BSスカパー! 田村淳の地上波ではダメ!絶対!
  6. ^ さわやかだいちゅき ふみおのtwitterより
  7. ^ “昇段・引退棋士のお知らせ|将棋ニュース|日本将棋連盟”. 日本将棋連盟 (2019年4月1日). 2019年4月4日閲覧。

関連項目

外部リンク

  • 菊地常夫|棋士データベース|日本将棋連盟
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