菅原 輔正(すがわら の すけまさ)は、平安時代中期の公卿・学者。右中弁・菅原淳茂の孫。勘解由長官・菅原在躬の長男。官位は正三位・参議、贈正二位。
経歴
村上朝の天暦4年(950年)文章得業生に補されると、課試を経て、正暦9年(955年)刑部少丞に任ぜられる。式部丞を務めた後、天徳4年(960年)従五位下・民部少輔に叙任される。
式部少輔・左衛門権佐を経て、康保3年(966年)従五位上・権右少弁に叙任されると、康保5年(968年)右少弁、安和2年(969年)左少弁、天禄元年(970年)正五位下、天禄2年(971年)右中弁、天禄3年(972年)従四位下、天禄4年(973年)権左中弁、貞元2年(977年)従四位上、貞元3年(978年)左中弁と、村上朝末から円融朝半ばにかけて約15年に亘って弁官を務めながら順調に昇進した。またこの間、春宮・師貞親王の東宮学士や文章博士を兼帯している。
天元4年(981年)大宰大弐に任ぜられて弁官の職を離れるが、早くも翌天元5年(982年)正四位下・式部権大輔に叙任されて京官に復す。一条朝に入ると正暦2年(991年)式部大輔を経て、正暦3年(992年)従三位に任ぜられ公卿に列した。長徳2年(996年)72歳にして参議に任ぜられ、菅原氏としては道真以来約100年ぶりの議政官の座に就く。長保5年(1003年)正三位に昇叙されるが、寛弘5年(1008年)参議を辞してのち式部大輔のみを帯びた。
寛弘6年(1010年1月)12月24日(薨去)。享年85。最終官位は前参議正三位式部大輔。以降、菅原氏からの公卿は200年以上途絶えた。没後北野神社の摂社に祭られ、寿永3年(1184年)には正二位を追贈されている。
官歴
注記のないものは『公卿補任』による。
- 天暦4年(950年) 文章得業生
- 天暦5年(951年) 正月30日:(播磨権少掾)
- 正暦8年(954年) 10月27日:課試
- 正暦9年(955年) 正月:判。閏9月:刑部少丞
- 正暦11年(957年) 正月27日:式部少丞
- 天徳2年(958年) 閏7月22日:式部大丞(弘親卒替)
- 天徳4年(960年) 正月7日:従五位下(策)。2月19日:(但馬権守)。4月22日:民部少輔
- 応和元年(961年) 10月13日:式部少輔
- 応和3年(963年) 正月28日:左衛門権佐
- 応和4年(964年) 4月1日:次侍従
- 康保2年(965年) 正月17日:止次侍従(依国府前使也)
- 康保3年(966年) 正月7日:従五位上(策)。正月27日:権右少弁
- 康保4年(967年) 9月1日:東宮昇殿
- 康保5年(968年) 2月5日:右少弁。12月18日:大学頭
- 安和2年(969年) 6月23日:左少弁。8月13日:東宮学士(春宮・師貞親王)。9月2日:昇殿
- 天禄元年(970年) 8月5日:文章博士。11月20日:正五位下(弁労)
- 天禄2年(971年) 正月29日:(越前介)。12月15日:右中弁
- 天禄3年(972年) 正月7日:従四位下(弁功労)。閏2月29日:(美作権守)
- 天禄4年(973年) 7月22日:権左中弁(学士博士如元)
- 貞元2年(977年) 8月2日:従四位上(造宮行事)。12月10日:(周防権守)
- 貞元3年(978年) 10月17日:左中弁
- 天元2年(979年) 10月17日:昇殿(石清水行幸行事以下加階聴昇殿)
- 天元4年(981年) 正月29日:大宰大弐。2月17日:昇殿
- 天元5年(982年) 正月7日:正四位下(弁労)。3月5日:式部権大輔
- 永観2年(984年) 8月27日:以本宮侍臣昇殿(但身在任所)。9月14日:聴雑袍
- 寛和2年(986年) 6月22日:止昇殿(譲位)
- 正暦2年(991年) 4月26日:(丹波権介)。5月2日:昇殿。5月21日:式部大輔
- 正暦3年(992年) 2月15日:従三位(持朱雀院御骨賞)、式部大輔如元
- 正暦4年(993年) 正月13日:兼越前権守
- 長徳2年(996年) 4月24日:参議、式部大輔越前権守如元
- 長徳3年(997年) 日付不詳:兼(大和権守)
- 長保元年(999年) 閏3月5日:兼太皇太后宮権大夫(太皇太后・昌子内親王)。12月7日:止大夫(依太皇太后宮崩御)
- 長保2年(1000年) 正月17日:兼(近江守)
- 長保5年(1003年) 正月30日:兼(備中権守)。11月5日:正三位
- 寛弘5年(1008年) 正月:兼三河守。2月7日:止参議、式部大輔如元
- 寛弘6年(1009年) 12月24日:(薨去)(前参議正三位式部大輔)
- 寿永3年(1184年) 3月:贈正二位(現神北野宰相殿是也)
系譜
「菅原氏系図」『群書類従』巻第63所収による。
脚注
参考文献
- 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年