施福寺(せふくじ)は、大阪府和泉市槙尾山町にある天台宗の寺院。山号は槇尾山。本尊は弥勒如来[1](札所本尊は(十一面千手観世音菩薩))。槇尾寺(まきおでら、まきのおでら)と呼ばれ、槇尾山(標高600m)の山腹に位置する。西国三十三所第4番札所。槇尾山とともに大阪みどりの百選に選定されている[2]。
施福寺 | |
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本堂 | |
所在地 | 大阪府和泉市槙尾山町136 |
位置 | 北緯34度23分34.47秒 東経135度30分41.68秒 / 北緯34.3929083度 東経135.5115778度座標: 北緯34度23分34.47秒 東経135度30分41.68秒 / 北緯34.3929083度 東経135.5115778度 |
山号 | 槇尾山 |
宗派 | 天台宗 |
本尊 | 弥勒如来 |
創建年 | 伝・欽明天皇時代(539年 - 571年) |
開山 | 伝・行満 |
正式名 | 槇尾山 施福寺 |
別称 | 槇尾寺 |
札所等 | 西国三十三所第4番 和泉西国三十三箇所第1番 西国愛染十七霊場第15番 神仏霊場巡拝の道第52番(大阪第11番) |
文化財 | 槙尾山大縁起(重要文化財) 施福寺参詣曼荼羅図ほか(府指定文化財) |
法人番号 | 3120105006662 |
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札所本尊真言:おん ばざら だらま きりく そわか
ご詠歌:深山路(みやまじ)や檜原(ひばら)松原わけゆけば 巻の尾寺(まきのおてら)に駒ぞいさめる
歴史
創建伝承
古くは槇尾山寺と呼ばれた山岳寺院で、葛城修験系の寺院として創建されたものとみられる。南北朝時代成立の寺史である『槇尾山大縁起』(正平15年・1360年書写)によると、施福寺は欽明天皇の時代(539年 - 571年)に播磨国加古郡の(行満)上人が創建したものであるという。
札所本尊の千手観音像については、次のような説話が伝承されている。宝亀2年(771年)のこと、当時槇尾山寺に住していた摂津国の僧・法海のもとに、一人のみすぼらしい格好をした修行僧があらわれ、夏安居(げあんご)の期間をこの寺で過ごさせてくれと頼んだ。この修行僧は客僧として槇尾山寺に置いてもらえることとなり、夏安居の期間熱心に修行に励んだ。予定の期間が終わって寺を辞去しようとする際、客僧は帰りの旅費を乞うたが寺僧たちはそれを拒んだ。すると客僧は怒り出し、「何ということだ。この寺は、見かけは立派だが、真の出家者などはいないではないか。このような寺はいずれ滅び去り、悪鬼の棲家となるであろう」と叫んで出て行ってしまった。驚いた法海が後を追うと、修行僧ははるかかなたの海上を沈みもせずに歩いている。これを見た法海は、あの修行僧は自分らを戒めるために現れた観音の化身であったと悟り、千手観音の像を刻んで祀ったという。
縁起には役小角(役行者)、行基、空海(弘法大師)などに関わる伝承もある。役小角については、彼が自ら書写した法華経の巻々を葛城山の各所の秘密の場所に埋納し、最後に埋めたのがこの山であったことから巻尾山(槇尾山)の名が付いたとする、地名起源伝承がある[注 1]。また、空海は延暦12年(793年)、20歳の時に槇尾山寺において勤操を導師として出家剃髪し、沙弥戒を受けたとする伝えがある。空海の当地における出家剃髪は史実とは認めがたいが[注 2]、空海が唐からの帰国後、都に戻る直前の大同4年(809年)頃、当寺に滞在した可能性は別の史料から指摘されている[注 3]。縁起には、延喜16年(916年)に定額寺に定められるとするが、施福寺は度重なる火災で古記録が失われており、史実か否か不明である。
以上のように、施福寺の初期の歴史は伝説色が濃く判然としないが、『日本霊異記』に言及されている「和泉国泉郡の血渟(ちぬ)の山寺」は当寺のこととされ、同書の成立した9世紀前半には著名な寺院であったことが伺われる。
中世以降
正嘉年間(1257年 - 1259年)、後白河上皇所縁の法華経と仏像が奉納されたことが縁起に見え、寺が所蔵する「法華経妙音菩薩品」(平安時代の装飾経)がそれにあたると推定されている[3]。仁治年間(1240年 - 1243年)には、仁和寺菩提院の僧・(行遍)によって灌頂堂(密教の師資相承の儀式を行う堂)が建立されており、中世には当寺は仁和寺の支配下にあった。
南北朝時代には南朝方の拠点の一つとなり、寺の衆徒も南朝方に与した。そのため戦火に巻き込まれることが多く、寺は衰亡した。天正9年(1581年)には織田信長と対立したことが原因で一山焼き払われるが、後に豊臣秀頼の援助により慶長8年(1603年)に仁王門を始めとする伽藍が復興された。
近世には徳川家の援助で栄え、その関係で寛永年間(1624年 - 1645年)頃に真言宗から天台宗に改宗し、江戸の寛永寺の末寺となった。江戸時代末期の弘化2年(1845年)の山火事で仁王門を除く伽藍を焼失。現在の本堂等はその後に再建されたものである。
参道入口の脇には(満願滝弁財天社)がある。
境内
麓には駐車場があるが、本堂(標高475m辺り)に至るには標高280m辺りの駐車場から約1キロメートル(約30分から40分の登山)もの急峻な階段を登らなければならない。西国三十三所のなかでも厳しい参道として知られる。槇尾山付近のハイキングを兼ねた参拝者が多く見受けられる。
- 本堂 - 弘化2年(1845年)の焼失後、安政年間(1854年 - 1860年)に再建されたものである。本尊は、弥勒如来坐像、右脇侍[注 4]に十一面千手観音立像、左脇侍に文殊菩薩立像を安置し、このうち十一面千手観音が西国三十三所の札所本尊となっている。西国札所巡礼の中興者とされる花山法皇を馬が道案内をしたと伝えられており、本尊と背中合わせの後堂(本尊の裏側)には馬頭観音坐像が安置されている。また、方違大観音坐像、元三大師坐像、伝教大師坐像、涅槃釈迦如来像など多数所蔵。
- 庫裏
- 大師堂
- 護摩堂
- 鐘楼
- 観音堂 - 西国三十三所観音霊場のそれぞれの札所の本尊を模した33体の観音像を祀る。
- 槇尾明神
- 愛染堂 - 弘法大師御剃髪所跡。空海が得度して剃髪したとされる場所で堂内には愛染明王像のほか、勤操と空海の像が安置されている。西国愛染十七霊場第15番札所。
- 弘法大師御髪堂 - 空海の剃髪した髪が祀られているとされる。
- 虚空堂
- 大日堂
- 十三重石塔
- 塔頭寺院の跡(石垣のみ)
- 姿見の井戸
- 仁王門 - 慶長8年(1603年)豊臣秀頼により再建。
愛染堂
弘法大師御髪堂
大師堂
護摩堂
虚空堂
大日堂
槇尾明神
文化財
重要文化財
大阪府指定有形文化財
和泉市指定有形文化財
行事
- 1月8日 - 碑伝木建て
- 4月21日 - 弘法大師御影供
- 5月1日から15日 - 開扉法要(年1回の札所本尊開帳)
- 8月9日 - 観音千日会
- 毎月18日 - 観音法会
前後の札所
交通アクセス
周辺
- (満願滝弁財天) - 槙尾山登山口付近にあり、満願寺不動尊や落差約50mの満願滝がある。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 『日本歴史地名大系 大阪府の地名II』、平凡社
- 『角川日本地名大辞典 大阪府』、角川書店
- 奈良国立博物館・NHKプラネット近畿編『西国三十三所観音 霊場の祈りと美』(特別展図録)、発行:奈良国立博物館、名古屋市博物館、NHKプラネット近畿、NHKサービスセンター、2008(解説執筆は頼富本宏、清水健ほか)
外部リンク
- 西国第4番札所 槇尾山 施福寺 - ホーム | Facebook
- 槙尾山施福寺 - 河内長野市ホームページ
- 施福寺 | OSAKA-INFO
- 第四番 施福寺:西国三十三所