松平 忠倶(まつだいら ただとも)は、江戸時代前期の大名。遠江国掛川藩の第2代藩主、後に信濃国飯山藩の初代藩主。桜井松平家9代。官位は従五位下・(遠江守)。
略歴
寛永11年(1634年)、掛川藩主・松平忠重の長男として誕生した[1]。
寛永16年(1639年)2月12日、6歳の時に父が死去した[1]。3月3日付けで家督を継ぐことが認められたが[1]、幼少であったために[2]即日信濃国飯山藩への移封を命じられた[1]。将軍徳川家光への拝謁はこれよりも遅れ、7月9日となった[1]。帝鑑間伺候という席次は、以後桜井松平家の例となった[1]。
正保3年(1646年)12月、従五位下・遠江守に叙位・任官する[1]。万治元年(1658年)から(大坂加番)に任じられ、その後も要職を歴任した。
藩主として初めて領国に入ったのは承応2年(1653年)のことであった[1]。寛文4年(1664年)に領知朱印状を下される[1]。藩政においては播磨国出身の(野田喜左衛門)(正満)を登用し[4][注釈 2]、千曲川の治水工事や灌漑水路の開鑿・新田開発を行い[2]、飯山藩の基礎を固めた[2]。
天和2年(1682年)には越後高田領[注釈 3]の検地業務に当たった[1]。元禄8年(1695年)3月に4回目の大坂加番に任じられて任地に赴いたが病に倒れ、元禄9年(1696年)5月26日に大坂で病死した[1]。享年63[1]。
嫡男の忠継は病によって元禄7年(1694年)に廃嫡し[6]、忠継の長男である忠敏を後継者とした[6]。しかしその忠敏も間もなく早世したため[6]、忠敏の弟にあたる忠喬が跡を継いだ。
系譜
特記事項のない限り、『寛政重修諸家譜』による[7]。子の続柄の後に記した ( ) 内の数字は、『寛政譜』の記載順。
補足
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『寛政重修諸家譜』巻第五、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.28。
- ^ a b c d “松平忠倶”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2021年11月25日閲覧。
- ^ “櫻井神社”. 古社寺巡拝記. 2021年11月27日閲覧。
- ^ “野田喜左衛門”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2021年11月25日閲覧。
- ^ “用水の神様 野田喜左衛門”. 長野市立豊野東小学校+Plus. 2021年11月25日閲覧。
- ^ a b c d e 『寛政重修諸家譜』巻第五、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.29。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第五、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』pp.28-29。
- ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第四百九十一、国民図書版『寛政重修諸家譜 第三輯』p.576。
- ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第三百三十六、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.881。
参考文献
- 『寛政重修諸家譜』巻第五
- 『寛政重修諸家譜 第一輯』(国民図書、1922年) (NDLJP):1082717/24
- 『新訂寛政重修諸家譜 第一』(続群書類従刊行会、1964年)
関連項目
外部リンク
- デジタル版 日本人名大辞典+Plus『(松平忠倶)』 - コトバンク