ATS・HS1は、(ATS)チームが1978年のF1世界選手権用に製作したフォーミュラ1カー。デザイナーはロビン・ハードと(ジョン・ジェントリー)。
カテゴリー | F1 |
---|---|
コンストラクター | (ATS) |
デザイナー | ロビン・ハード (ジョン・ジェントリー) |
後継 | ATS・D1 |
主要諸元 | |
シャシー | アルミニウム製モノコック |
エンジン | フォード-コスワース DFV 90° V8, |
トランスミッション | ヒューランド FGA400 |
重量 | 585 kg (1,290 lb) |
燃料 | シェル |
タイヤ | グッドイヤー |
主要成績 | |
チーム | (ATSレーシングチーム) |
ドライバー | 9. ヨッヘン・マス 9. /10. ミハエル・ブリークモレン 10. ジャン=ピエール・ジャリエ 10. アルベルト・コロンボ 10. ケケ・ロズベルグ 10. (ハンス・ビンダー) 10. ハラルド・アーテル |
コンストラクターズタイトル | 0 |
ドライバーズタイトル | 0 |
初戦 | 1978年アルゼンチングランプリ |
開発の背景
ATSは1969年に設立された自動車用品メーカーで、主に鋳造ホイールを製造していた。1970年代初めに共同オーナーのギュンター・シュミット主導の下、モータースポーツイベントのスポンサーを始める。1975年にはフィンランド人ドライバーの(ミッコ・コザロウィッツキー)と共に(フォーミュラ・ヴィー)に参戦する。翌年にATSホイールはコザロウィッツキー、(ラインホルト・ヨースト)と共にフォーミュラ2に参入したが、成功はできなかった。1977年の初めにATSはチーム・ペンスキーの機材を購入した。ATSレーシングチームとしてF1に参戦、ペンスキー・PC4をジャン=ピエール・ジャリエがドライブし、初レースの(アメリカ西グランプリ)でポイントを獲得した。それとは別に、シーズンは「混沌」[1]としたものとなり、それ以上の結果を出すことはできなかった。1978年に入るとATSは、前年限りでF1を撤退したマーチ・エンジニアリングの機材を入手、チームの拠点をイギリスへ移動させ、旧マーチのスタッフと共にオリジナルの車両、ATS・HS1を開発した。この車両は独立デザイナーに設計を依頼した物であった[1]。HS1は何度か完走したものの、いずれもポイント圏外であった。HS1はシーズン終盤には新型のATS・D1に取って代わられた。
製造
HS1のデザイナーはマーチ・エンジニアリング創設者の一人であるロビン・ハードと(ジョン・ジェントリー)であった[2]。ある者はHS1を完全な再設計と信じたが[3]、別のソースによると、1976年に(ジェフ・フェリス)が設計したペンスキー・PC4の再設計にすぎないともされ[4]、それは1975年のマーチ・751が起源とされた[5]。
HS1はアルミニウム製モノコックを持ち、PC4に比べてトレッドは前が1500mmから1422mm、後が1525mmから1473mmと縮小された[2]。これは、PC4とその前身のペンスキー・PC3のサスペンションに対応していた。PC4と比較するとより平たいフロントエンドとなり、エンジンカバーは小型の物を装着した。エンジンはフォード-コスワース DFVを搭載した。ギアボックスはヒューランドFG400、タイヤはグッドイヤーを装着した。
シャシー
HS1は3台が製作された。シーズンの大半は1号車と2号車が使用され、3号車は2戦にのみ使用された[6]。それぞれのシャシーが使用されたグランプリは以下の通り。
グランプリ | ATS HS1/1 | ATS HS1/2 | ATS HS1/3 |
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アルゼンチン | ヨッヘン・マス | ジャン=ピエール・ジャリエ | |
(ブラジル) | ヨッヘン・マス | ジャン=ピエール・ジャリエ ヨッヘン・マス | |
(南アフリカ) | ジャン=ピエール・ジャリエ | ヨッヘン・マス | |
(アメリカ西) | ジャン=ピエール・ジャリエ | ヨッヘン・マス | |
(モナコ) | ジャン=ピエール・ジャリエ | ヨッヘン・マス | |
(ベルギー) | ヨッヘン・マス アルベルト・コロンボ | ||
スペイン | ヨッヘン・マス | アルベルト・コロンボ | |
スウェーデン | ヨッヘン・マス | ケケ・ロズベルグ | |
(フランス) | ヨッヘン・マス | ケケ・ロズベルグ | |
(イギリス) | ヨッヘン・マス | ケケ・ロズベルグ | |
西ドイツ | ヨッヘン・マス | ジャン=ピエール・ジャリエ | |
オーストリア | ヨッヘン・マス | ハンス・ビンダー | |
オランダ | ヨッヘン・マス | ミハエル・ブリークモレン | |
イタリア | ハラルド・アーテル | ミハエル・ブリークモレン | |
(アメリカ) | ミハエル・ブリークモレン | ||
カナダ | ミハエル・ブリークモレン |
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F1における全成績
((key)) (太字はポールポジション)
年 | チーム | エンジン | タイヤ | ドライバー | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | ポイント | 順位 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1978年 | (ATSレーシングチーム) | フォード-コスワース DFV | G | ARG | (BRA) | (RSA) | (USW) | (MON) | (BEL) | ESP | SWE | (FRA) | (GBR) | GER | AUT | NED | ITA | (USA) | CAN | 0 | NC | |
ヨッヘン・マス | 11 | 7 | Ret | Ret | DNQ | 11 | 9 | 13 | 13 | NC | Ret | DNQ | DNQ | |||||||||
ミハエル・ブリークモレン | DNQ | DNQ | Ret | DNPQ | ||||||||||||||||||
ジャン=ピエール・ジャリエ | 12 | DNS | 8 | 11 | DNQ | DNQ | ||||||||||||||||
アルベルト・コロンボ | DNQ | DNQ | ||||||||||||||||||||
ケケ・ロズベルグ | 15 | 16 | 17 | |||||||||||||||||||
(ハンス・ビンダー) | DNQ | |||||||||||||||||||||
ハラルド・アーテル | DNQ* |
参照
- ^ a b Doug Nye: Das große Buch der Formel-1-Rennwagen. Die Dreiliterformel ab 1966. Verlagsgesellschaft Rudolf Müller, Köln 1986, (ISBN 3-481-29851-X), S. 167.
- ^ a b Adriano Cimarosti: Das Jahrhundert des Rennsports. 1. Auflage. Stuttgart 1997, (ISBN 3-613-01848-9), S. 289.
- ^ Pierre Ménard: La Grande Encyclopédie de la Formule 1. 2. Auflage. St. Sulpice 2000, (ISBN 2-940125-45-7), S. 136.
- ^ David Hodges: Rennwagen von A–Z nach 1945. Motorbuch Verlag, Stuttgart 1993, (ISBN 3-613-01477-7), S. 23 f.
- ^ David Hodges: Rennwagen von A–Z nach 1945. Motorbuch Verlag, Stuttgart 1993, (ISBN 3-613-01477-7), S. 208.
- ^ Renngeschichte des ATS HS1 auf der Internetseite www.oldracingcars.com (abgerufen am 23. Mai 2014).