1963年の南海ホークスでは、1963年の南海ホークスの動向をまとめる。
1963年の南海ホークス | |
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成績 | |
パシフィック・リーグ2位 | |
85勝61敗4分 勝率.582[1] | |
本拠地 | |
都市 | 大阪府大阪市 |
球場 | 大阪球場 |
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球団組織 | |
経営母体 | 南海電気鉄道 |
監督 | 鶴岡一人 |
« 1962 1964 » |
この年の南海ホークスは、鶴岡一人監督の18年目のシーズンである。
概要
前年、一度は最下位になりながら借金を返済し、ようやく2位に滑り込んだチームだったが、この年は前年優勝の東映が開幕から躓き、逆に南海が開幕から13勝2敗と首位をひた走る最高のスタートダッシュになった。
この年は打撃陣が184本塁打と打ちまくり、ピートとハドリの外国人コンビはそれぞれ24、30本塁打を記録。4番の野村克也は小鶴誠が記録していた51本塁打を13年ぶりに破り、52本塁打まで記録を伸ばした(翌年に巨人の王貞治が55本塁打で更新)。リーグMVPや打点王も獲得するなど、野村の大活躍が目立った1年となった。投手陣では大黒柱の杉浦忠、ジョー・スタンカ、皆川睦雄などが勝ち星を重ね、若手の三浦清弘、森中千香良、高橋栄一郎も好調。6人全員が二桁勝利を挙げた。
しかし、2位東映に8ゲーム差をつける独走状態で前半戦を終了するも、後半戦に入るや西鉄が猛追し、最後は14.5ゲーム差からの大逆転優勝を許して2位に終わった。対戦成績は西鉄には前半互角だったものの、後半の直接対決でほとんど勝てず(8月以降はわずか4勝)、5位の大毎や最下位の近鉄に大きく勝ち越すのがやっとだった。それでも、開幕ダッシュ失敗の前年と違って1年通して好調を堅持した自信が、翌年のリーグ優勝&日本一へ繋がっていく。
チーム成績
レギュラーシーズン
順位 | 4月終了時 | 5月終了時 | 6月終了時 | 7月終了時 | 8月終了時 | 9月終了時 | 最終成績 | |||||||
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1位 | 南海 | -- | 南海 | -- | 南海 | -- | 南海 | -- | 南海 | -- | 南海 | -- | 西鉄 | -- |
2位 | 東映 | 2.0 | 東映 | 4.5 | 東映 | 8.0 | 東映 | 7.5 | 西鉄 | 7.5 | 西鉄 | 3.5 | 南海 | 1.0 |
3位 | 阪急 | 4.5 | 近鉄 | 8.5 | 近鉄 | 11.5 | 近鉄 | 11.0 | 近鉄 | 9.0 | 東映 | 11.0 | 東映 | 10.5 |
4位 | 西鉄 | 5.0 | 大毎 | 9.0 | 西鉄 | 13.5 | 西鉄 | 13.0 | 東映 | 10.0 | 近鉄 | 12.0 | 近鉄 | 12.5 |
5位 | 大毎 | 5.5 | 西鉄 | 10.0 | 大毎 | 19.5 | 大毎 | 16.5 | 大毎 | 16.5 | 大毎 | 17.5 | 大毎 | 23.5 |
6位 | 近鉄 | 7.0 | 阪急 | 13.0 | 阪急 | 19.5 | 阪急 | 21.0 | 阪急 | 23.0 | 阪急 | 25.0 | 阪急 | 30.5 |
オールスターゲーム1963
詳細は「1963年のオールスターゲーム (日本プロ野球)」を参照