1950年の東急フライヤーズでは、1950年の東急フライヤーズの動向をまとめる。
1950年の東急フライヤーズ | |
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成績 | |
パシフィック・リーグ6位 | |
51勝69敗 勝率.425[1] | |
本拠地 | |
都市 | 東京都文京区 |
球場 | 後楽園球場 |
球団組織 | |
オーナー | 大川博 |
経営母体 | 東急電鉄 |
監督 | 安藤忍 |
« 1949 1951 » |
この年の東急フライヤーズは、2リーグ制1年目のシーズンであり、安藤忍監督の1年目のシーズンである。
概要
大映の金星買収を受けて1949年に球団が東急フライヤーズの名称に戻り、チームは井野川利春監督の元7位ながらも借金を1ケタにとどめる健闘を見せた。井野川監督は明治大学の先輩である安藤忍に指揮権を委譲し、この年総監督となった。パ・リーグ1年目のチームは開幕からまずまずの滑り出しで、4月は首位の毎日に次ぐ3位につけ、その後も4位争いを展開。9月終了時点では毎日に22ゲーム差をつけられながらも4位につけていたが、10月以降は同じ新球団の西鉄(翌年、セ・リーグの西日本と合併)や阪急に抜かれて7球団中の6位に転落したが近鉄の最下位独走に助けられる形となった。なお、安藤監督と井野川総監督の体制は翌年の1951年まで続くことになる。
チーム成績
レギュラーシーズン
順位 | 3月終了時 | 4月終了時 | 5月終了時 | 7月終了時 | 8月終了時 | 9月終了時 | 10月終了時 | 最終成績 | ||||||||
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1位 | 毎日 | -- | 毎日 | -- | 毎日 | -- | 毎日 | -- | 毎日 | -- | 毎日 | -- | 毎日 | -- | 毎日 | -- |
2位 | 南海 | 0.5 | 南海 | 2.0 | 南海 | 5.0 | 南海 | 9.5 | 南海 | 12.0 | 南海 | 13.0 | 南海 | 15.0 | 南海 | 15.0 |
3位 | 東急 | 2.5 | 大映 | 5.5 | 大映 | 13.5 | 大映 | 18.0 | 大映 | 18.5 | 大映 | 14.5 | 大映 | 17.5 | 大映 | 19.5 |
4位 | 近鉄 | 3.0 | 東急 | 7.5 | 東急 | 16.0 | 阪急 | 20.5 | 東急 | 21.0 | 東急 | 22.0 | 阪急 | 25.5 | 阪急 | 28.5 |
5位 | 西鉄 | 3.0 | 西鉄 | 西鉄 | 17.5 | 東急 | 21.0 | 西鉄 | 23.0 | 西鉄 | 26.5 | 東急 | 28.0 | 西鉄 | 31.5 | |
6位 | 大映 | 3.5 | 近鉄 | 8.0 | 近鉄 | 17.5 | 近鉄 | 23.0 | 阪急 | 23.0 | 阪急 | 27.0 | 西鉄 | 29.5 | 東急 | 32.5 |
7位 | 阪急 | 5.0 | 阪急 | 11.5 | 阪急 | 18.0 | 西鉄 | 23.5 | 近鉄 | 28.5 | 近鉄 | 30.0 | 近鉄 | 35.0 | 近鉄 | 37.5 |
できごと
- 球団歌「東急フライヤーズの唄」(作詞:藤浦洸、作曲:古関裕而)制定が東急電鉄社内報『清和』5月号で発表される[2]。
選手・スタッフ
表彰選手
ベストナイン | ||
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選手名 | ポジション | 回数 |
大下弘 | 外野手 | 2年連続3度目 |