1949年の東急フライヤーズでは、1949年シーズンの東急フライヤーズの動向をまとめる。
1949年の東急フライヤーズ | |
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成績 | |
レギュラーシーズン7位 64勝73敗1分 勝率.467[1] | |
本拠地 | |
都市 | 東京都文京区 |
後楽園球場 | |
球団組織 | |
オーナー | 大川博 |
経営母体 | 東急電鉄 |
監督 | 井野川利春(選手兼任) |
« 1948 1950 » |
この年の東急フライヤーズは、大映野球が経営から撤退し、2シーズンぶりに球団名が「東急フライヤーズ」に戻ったシーズンであり、翌シーズンから総監督となった井野川利春選手兼任監督の1年目のシーズンである。
概要
1948年の急映フライヤーズでも触れたように前年は大映と東急電鉄の両方を親会社に持ち、急映フライヤーズを名乗った。しかし、肝心の成績がふるわず8月に苅田久徳前監督が休養したが、最後は辛うじて5位でシーズン終了。この年から大映が金星スターズを買収したことにより、東急電鉄が親会社に復帰。チームは大下弘や白木義一郎など主力の活躍でAクラスが期待されたが、4月は巨人に8ゲームも離された。その後も成績浮上の糸口をつかめず、6月までは中日との最下位争いが続いた。7月以降は持ち直して借金を1ケタにとどめ、最後は優勝の巨人と23ゲーム差の7位で終えた。シーズン終了後、新球団の加盟をめぐりプロ野球は2リーグに分裂。東急はパシフィック・リーグへ翌年から加盟し、現在の日本ハムへとつながっていく。
チーム成績
レギュラーシーズン
順位 | 4月終了時 | 5月終了時 | 6月終了時 | 7月終了時 | 8月終了時 | 9月終了時 | 最終成績 | |||||||
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1位 | 巨人 | -- | 巨人 | -- | 巨人 | -- | 巨人 | -- | 巨人 | -- | 巨人 | -- | 巨人 | -- |
2位 | 南海 | 3.0 | 大阪 | 4.0 | 南海 | 4.0 | 大阪 | 9.0 | 大阪 | 9.5 | 大映 | 14.5 | 阪急 | 16.0 |
3位 | 大阪 | 3.5 | 南海 | 4.5 | 大映 | 大映 | 9.5 | 阪急 | 12.0 | 阪急 | 16.0 | 大映 | 17.5 | |
4位 | 大映 | 5.0 | 大映 | 7.0 | 大阪 | 5.0 | 阪急 | 11.0 | 大映 | 14.5 | 大阪 | 18.0 | 南海 | 18.5 |
5位 | 中日 | 6.5 | 阪急 | 9.5 | 阪急 | 7.0 | 南海 | 14.5 | 南海 | 15.5 | 南海 | 中日 | 19.5 | |
6位 | 東急 | 8.0 | 中日 | 11.5 | 大陽 | 11.5 | 中日 | 17.5 | 東急 | 20.0 | 中日 | 20.0 | 大阪 | 20.5 |
7位 | 阪急 | 9.0 | 大陽 | 11.5 | 東急 | 14.0 | 東急 | 18.0 | 中日 | 20.5 | 東急 | 24.5 | 東急 | 23.0 |
8位 | 大陽 | 東急 | 12.0 | 中日 | 14.5 | 大陽 | 24.5 | 大陽 | 28.0 | 大陽 | 33.0 | 大陽 | 33.0 |
できごと
この節の加筆が望まれています。 |
選手・スタッフ
表彰選手
リーグ・リーダー |
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受賞者なし |