高橋 進太郎(たかはし しんたろう、1902年12月18日 - 1984年6月5日[1])は、戦後昭和期の日本の政治家。参議院議員(3期)、行政管理庁長官(第20代)、宮城県知事(公選第7代)。
来歴
1902年(明治35年)生まれ、現白石市出身[2]。1928年(昭和3年)、東北帝国大学(現・東北大学)法文学部を卒業した。高等文官試験に合格し、1936年(昭和11年)からはパラオ諸島コロールにあった南洋庁において、拓殖部長として南洋諸島の行政に関わった[2][3]。拓務省企画課長、大東亜省行政課長などを歴任。
南洋諸島では1943年(昭和18年)12月から日本本土への帰還が始まり、海外移住組合連合会がそれを担っていたが、1944年(昭和19年)2月17日、18日のトラック島空襲や3月30日、31日のパラオ大空襲を受けて、同年4月に大東亜省が「財団法人南洋群島共助義会[4]」を設立し、帰還を担当させた[3]。高橋は同会の第2代会長に就任[3]。1945年(昭和20年)の終戦後は引き揚げが国の事業となり、南洋諸島からは1946年(昭和21年)前半に終了した[3]。
1947年(昭和22年)4月、南洋群島共助義会会長を辞任し[3]、戦後占領期に実現された公選による初代宮城県知事千葉三郎の下、副知事(初代)に就任した。
1950年(昭和25年)、自由党公認で第2回参議院議員通常選挙に立候補して初当選。その後、3期にわたって参議院議員を務め、法務政務次官、参議院議院運営委員長を歴任したほか、1960年(昭和35年)に組閣された第1次池田内閣では、行政管理庁長官として入閣した。国会では、引揚者給付金等支給法(1957年制定)の対象に、戦中の南洋諸島からの帰還者が含まれるよう精力的に活動した[3]。
1965年(昭和40年)、当時の宮城県知事三浦義男の急逝に伴う宮城県知事選挙に立候補して当選、宮城県知事を1期務めた。在任中には、前知事時代に指定された新産業都市「仙台湾地区」に着手したほか、三菱地所による「泉パークタウン」、「鬼首リゾート」などの大規模開発を支援した。
その他
脚注
- ^ a b "高橋 進太郎". 新訂 政治家人名事典 明治~昭和. コトバンクより2023年1月5日閲覧。
- ^ a b c d (日本語). 河北新報. オリジナルの2015年6月15日時点におけるアーカイブ。 2021年5月13日閲覧。
- ^ a b c d e f 今泉裕美子「南洋群島引揚げ者の団体形成とその活動--日本の敗戦直後を中心として」『史料編集室紀要』第30号、沖縄県教育委員会、2005年3月、1-44頁、ISSN 09144137、NAID 40007213156。
- ^ 1944年(昭和19年)4月に設立された「財団法人南洋群島共助義会」は、1947年(昭和22年)4月に「財団法人共助義会」に改組し、1956年(昭和31年)7月に 「財団法人南洋群島協会」に再改組した。1999年(平成11年)4月に財団法人を取りやめて「南洋群島協会」となり、2005年(平成17年)6月1日の第40回全国南洋会サイパン大会をもって活動を終了した。
- ^ 『官報』第13905号6頁 昭和48年5月4日号
- ^ 『官報』第17203号14-15頁 昭和59年6月12日号
- ^ 32世帯とも38世帯とも言われる。
- ^ パラオの記憶 名前に(読売新聞 2015年5月2日)