生涯
呉の丞相顧雍の同母弟にあたる。孫権に召し出されて(主簿)となる。その後も輔義都尉など要職を歴任した。孫権の腹心として活躍していた。
曹操が江南に攻め入るという情報が入った際には、孫権の命令で曹操の内情を調査するために使者として派遣され、交渉の席で曹操に高く評価された[1]。袁譚討伐の情報を得る。帰国後に巴東太守となるが、間もなく急死した[1]。
子に(顧裕)がおり鎮東将軍となっている。顧雍の次男にも同姓同名の(顧裕)(顧穆)がおり、こちらは宜都太守となっている[2]。
家系図
脚注
- ^ a b c 中国の思想刊行委員会 1994, p. 110.
- ^ 中国の思想刊行委員会 1994, p. 111.
参考文献
- 中国の思想刊行委員会 編『三国志全人名事典』徳間書店、1994年11月。