地理
八戸市の中央部に位置し、北に柏崎、南に南類家、田向、東に新井田川、西に中心市街地、吹上と接する。 もともと田園地帯だったため平坦な土地が多い。宅地化に合わせ都市公園やグリーンベルト(高圧電線地帯)の整備も進んだ。
鉄道の駅は無い。幹線道路は、国道45号(通称八戸バイパス)、市道3・4・5街路(国道45号線から八戸市立市民病院に繋がる2車線道路)、市道3・4・8街路(ゆりの木通り)、市道3・4・20街路(国道45号線から吹上に繋がる4車線道路)、市道3・5・18街路に面している。これらの幹線道路は八戸市営バスと南部バスのバス路線になっているほか、いずれにも側道が存在し渋滞の緩和に役立てられている。
国道45号線周辺、ゆりの木道路沿い等に近隣商業地が沿線に立地している。また、市民センターや、八戸東高等学校もある。八戸市中心市街地から2・3キロメートルの距離にあるため、交通の利便性も良い。八戸市マスタープランによると類家地区は緑化の推進や、歩道などの公共空間のバリアフリー化により居住環境の向上を図る地区に盛り込まれている。
世帯数と人口
歴史
類家の地名が登場する最も古い文書は、元和3年(1617年)の「一るいけ」で、南部直利知状の南部家文書に記されている。時を同じくして根城南部氏の支配下に組み込まれた。翌年の知行目録には「るい家」という記述が残っている。初めて地図に記されたのは正保4年(1647年)「類家村」として南部領内総絵図に登場する。この年の村の様子を書いた郷村帳の記録によると類家は140石余あり51%を田が占めていた。 寛文4年(1664年)、南部藩から八戸藩が独立した事を受け、類家村は八戸藩に入る。
- 現在の類家一帯は、新田川低地、又は類家たんぼと呼ばれる低湿地になっていて水田に利用されていた。[3]
- 1972年(昭和47年)現在の国道45号八戸バイパスが完成し、土地区画整理事業により宅地造成がはじまる。
- その後、住居表示実施等を経て現在の形となっている。
義経伝説と「類家」
八戸には以下のような義経伝説が残されている。伝承によれば、『義経一行は岩手県の久慈から青森県の八戸にはいり、八戸では、館を構えて長期間滞在していた』とされている。また、『義経一行が八戸での滞在中、長旅の疲れから奥方が病気で亡くなり、その後、義経主従は青森に向かった』としている。
類家の由来
義経が八戸に来た際にこのとき構えた館に似ていた家屋を『義経様が住んでいた家屋と似ている家屋』つまり「類家」と呼んのだのがはじまりとされ、この由来は八戸地方で広く伝承されている。