顕証寺(けんしょうじ)は、大阪府八尾市久宝寺にある浄土真宗本願寺派の寺院。山号は近松山。久宝寺御坊ともいう。かつて、周囲に寺内町を形成し、現在もその町並みをとどめている。
歴史
伝承によれば、久宝寺の地名は、飛鳥時代に聖徳太子が「久宝寺」を当地に創建したことに由来する。顕証寺西側の許麻神社(こまじんじゃ)境内には太子創建を伝える久宝寺観音院があったが、明治の神仏分離で廃絶した。
文明元年(1469年)、本願寺8世法主蓮如は、近江国近松(滋賀県大津市)に顕証寺を創建し、初めは長男順如、その死後は6男蓮淳に住持させた。これは後の本願寺近松別院となり、寺号は後に久宝寺御坊顕証寺に引き継がれた。そのため、戦前まで近松別院は久宝寺村の顕証寺が法要を勤めていた。
文明2年(1470年)、蓮如は河内国渋川郡(現在の東大阪市布施から八尾市龍華一帯)を訪れて布教活動を始めた。当初は久宝寺にあった慈願寺(のち八尾の現在地へ移転。後述)を本拠としたが、明応年間(1492年 - 1501年)、久宝寺跡に「西証寺」を建立した。この時、近くにある(久宝寺城)主の安井氏は地域住民が一向宗に与するのを見計らい、地域支配を維持するために創建に協力している。蓮如の11男の実順を住持とし、ここを河内一向宗の中心道場とした[注釈 1]。しかし実順は永正15年(1518年)、25歳で没し、その跡を継いだ子の(実真)も享禄2年(1529年)に13歳で早世したため、近江顕証寺から蓮淳を迎え、その時に「顕証寺」と寺号を改めた。
戦国時代に入ると、戦乱を防ぎ、門徒の団結をはかるため、天文10年(1541年)頃に顕証寺を中心に周囲に二重の堀と土塀を巡らし、その内側に碁盤目に道を巡らした寺内町を作った。寺内町では顕証寺がいっさいの支配権をもち、安井氏がこの権利を委されていた。また、本願寺内での蓮淳の地位の高さもあって、交野郡招提や石川郡大ケ塚といった河内国の他の寺内町も統轄するようになった。
安土桃山時代になると、石山合戦の際に顕証寺は講和派(顕如)、慈願寺は抗戦派(教如)に分かれ、激しい対立関係に発展した。その後の本願寺東西分裂の際も顕証寺は西本願寺、慈願寺は東本願寺に属した。慶長11年(1606年)、顕証寺と安井氏の支配に異を唱える慈願寺と森本行誓ら17名の住人は久宝寺寺内町を出て、旧大和川の本流にあたる現在の長瀬川の東岸、若江郡八尾の荒地を開墾し、八尾御坊(現、真宗大谷派八尾別院大信寺)を中心に八尾寺内町を作った。
慶長19年(1614年)から元和元年(1615年)にかけて徳川家康と豊臣秀頼が衝突した(大坂冬の陣)・(大坂夏の陣)において、この地域は主戦場のひとつとなり、辺りは焼き払われ、焼け野原になった。現在の本堂には江戸時代中期・正徳6年(1716年)の棟札があり、この年再建されたものとわかる。
江戸時代前半頃には(八尾街道)の中継地として栄えたが、宝永元年(1704年)の大和川付け替えを境に、地域の中心は久宝寺村から寺内村(八尾)に移っていった。
2019年(平成31年)に建造物9棟が府指定文化財となった[1]。
西本願寺・大谷家との関係
- 蓮如の子蓮淳を開基とし、大谷宗家に準ずる連枝格寺院である。また、住職から歴代宗主(門主)を輩出している。
- 顕証寺第11代寂峰は、亀山本徳寺8世住職の(寂円)連枝(大谷昭尊)の子として生まれ、13歳で顕証寺に入寺し得度、当山住職就任後、本願寺第16世宗主湛如の急逝を受け、本願寺第17世宗主法如となる。31人の子を儲けた[2]。
- 顕証寺第13代(文淳)(文如の三男。近松暉宣)の子は、一旦は顕証寺住職を継ぐも、本願寺第20世宗主広如となった。広如の母は文如の弟の娘[2]。広如の実子に本願寺第21世宗主明如がいる。
- 顕証寺第14代(摂真)の長男・光淳(童名:実枝、普賢院広潤)は、広如の養子に迎えられ、徳如(信歓院)と改称、九条尚忠の猶子となって新門跡と称したが[2]、宗主を継職せず遷化。なお、摂真は二条家(二条治孝)から室を迎えている。広如の子・明如を養子とした。
- 顕証寺第16代(近松尊定)は、鏡如(大谷光瑞)引退を受けて浄土真宗本願寺派管長代理を務めた。
- 近代以降は近松姓を名乗っている。
文化財
- 大阪府指定文化財
- 顕証寺本堂[3]
- 東長屋
- 表門及び脇築地塀
- 西長屋
- 渡廊
- 長屋門
- 手水舎
- 庫裡
- 鐘楼
- 附 本堂棟札二枚
交通
脚注
注釈
出典
参考文献
- 『大阪府の地名II』(日本歴史地名大系)、平凡社、1986
関連項目
外部リンク
- 顕証寺と久宝寺寺内町 - 八尾市文化財情報システム
- 顕証寺 (kenshoji18) - Facebook