音羽山部屋(おとわやまべや)は、かつて存在した相撲部屋。
沿革
初代、3代、4代音羽山峰右エ門[1]、6代音羽山峰右エ門[2]が名跡を音羽山から雷に変更しており、部屋経営も行っている。
雷部屋の元幕内音羽山峰右エ門[3]は、慶應2年より7代音羽山を襲名したが、すぐに廃業した。その後同じ雷部屋の元関脇平石七太夫が8代目、元十両(出釈迦山与吉)が9代目を襲名して部屋を存続させた。弟子には幕内井筒菊治郎[4]、幕内(出釈迦山 峯吉)[5]らがいた。
佐野山部屋の元幕内新川市平は現役中に10代目となり部屋も興したが、力士を育てられず現役のまま没した。
雷部屋の元十両梅垣直治郎は明治30年(1897年)5月に11代音羽山を襲名し部屋を興したが、関取を出すことなく没した。
尾車部屋の幕内、白岩亮治が引退して、1930年に再興した。しかし、めぼしい力士もでないまま、1945年かぎりで部屋を閉じ、全員が時津風部屋に移籍した。その中に、後の幕内吉田川征四郎がいた。