青砥 昇(あおと のぼる、1921年(大正10年)6月28日 - 1986年(昭和61年)5月4日)は日本の実業家。元山陰放送社長[2]。
経歴
鳥取県米子市出身。米子中学校を経て、1945年(昭和20年)京都大学工学部卒業[2]。1948年(昭和23年)米子大栄社長、昭和28年(1953年)ラジオ山陰(現:山陰放送)創設と同時に取締役に就任[2]。1955年(昭和30年)常務取締役を経て昭和49年(1974年)山陰放送社長に就任[2]。
1980年(昭和55年)~昭和61年(1986年)(米子商工会議所)副会頭のほか(鳥取県経営者協会)副会長、米子市監査委員、米子ライオンズクラブ会長、日本民間放送連盟理事、ビーエスエス企画・山陰興発・米子空港ビル各取締役などを歴任した[2]。
1986年(昭和61年)5月4日死去。
エピソード
1949年(昭和24年)青砥昇、(松本僌)(後の米子市長)など10名ばかりが集まって「三十路会」が結成された[3]。「三十路会」の集合場所は万能町の三光荘[3]。1952年(昭和27年)「三十路会」を拡大して「紀洋会」という親交団体ができた[4]。この名称はその年に生まれた青砥昇の長女と村上一平(博愛病院理事長)の長男の名をとって“紀洋”とした[4]。「紀洋会」が「居酒屋の青春」からの脱却を図って、専門大店青年部と協力して青年会議所に発展的解消を遂げたのは1958年(昭和33年)7月12日であった[4]。初代理事長(稲田松太郎)、総務委員長村上一平、事務局長山本盛夫であった[4]。
住所は米子市(西町)[1]。
家族・親族
青砥家
略系図
参考文献
- 『新日本人物大観』(鳥取県版)人事調査通信社 1958年、ア…p.49
- 『鳥取県人名録』(企画・編集 鳥取県人名録刊行委員会 旬刊政経レポート、1987年、p.725)
- 『私の交遊抄(上)』(編集・朝日新聞鳥取支局、1989年、pp.416-417)
脚注
外部リンク
- とっとりデジタルコレクション--青砥昇