青木 貞三(あおき ていぞう、1858年(安政5年) - 1889年(明治22年)2月6日)は明治時代の日本の官吏、実業家。旧名は竹内 節[1]。
生涯
信濃国筑摩郡(現:長野県)に生まれる。(筑摩県師範講習所)卒業。上京し、攻玉社に入り英学を学び、1875年(明治8年)儒者、漢詩人の(青木錦村)の養子となり[1]、その遺志を継いで1885年(明治18年)湯島に克己塾を開く。
岩倉具視の知遇を得て、元老院に奉職し、宮内省編纂局に転じて「大政紀要」を著す。1883年(明治16年)に太政官少書記官、1885年(明治18年)に文書局長、内閣官房官報局長となるが上官と対立し、その後は実業界に転じた。1886年(明治19年)から翌年まで東京米商会所頭取を務め[1]、東京の(商業電報)や長野県の(信陽日報)の経営を行い、1888年(明治21年)には欧米を歴訪して海外市場調査を行ったが、1889年に32歳で死去[1]。
脚注
参考文献
- 「長野県歴史人物大事典」郷土出版社 1989年