障壁画(しょうへきが)は、(障子絵) (襖絵など) の、日本の建築物における壁貼付絵の総称[1]。天井に描いた天井画や(杉戸絵)などは全て障壁画に含まれるが、杉戸絵を除けば全て紙に描いた貼付絵である。また、障壁画と屏風絵の総称として、「障屏画」(しょうへいが・しょうびょうが) とも呼ばれる[2]。
歴史
障壁画は日本において、寝殿造や書院造などの建築様式が発展したことにより、古くから大画面の建築装飾画として、強い存在を見せてきた[3]。特に安土桃山時代、安土城のような城などの建築物においては、その内部に壮大な障壁画(天井画などを含む)が、建築物(城)としての力強さや芸術的な意味での美しさなどを強く表現するうえで欠かせないものとなり、金碧 ((金碧障壁画)) や豪壮華麗などの特徴を持った障壁画が使用され、大規模な発展をした[4]。こうした障壁画は、後に日本の伝統的な寺院などの建築物においても描かれるようになった[3][1]。それ以降も障壁画の歴史は続き、日本の伝統文化史において発展の黄金時代ともいえる元禄文化が訪れた江戸時代には、多くの画家によって障壁画が描かれている。狩野派(狩野探幽)や、長谷川派(長谷川等伯)、海北派(海北友松)、雲谷派(雲谷等顔)などの多くの画家が、それぞれ多様に障壁画・障屏画を描いてきた[3]。波濤図屏風(尾形光琳)や(山水図屏風) (相阿弥)、(老梅図)(狩野山雪)や(海浜奇勝図)(長沢蘆雪)などは、障壁画・障屏画の代表例といえる。現在も多くの寺院や城などに、障壁画作品が残されている。
脚注
- ^ a b 書籍「すぐわかる寺院別障壁画の見かた」 宮元健次 ISBN (9784808708573)
- ^ 武田恒夫(2002)『狩野派障屏画の研究』、吉川弘文館、2002年。p.5。
- ^ a b c “障壁画(しょうへきが)|日本史 -し-|ヒストリスト[Historist]−歴史と教科書の山川出版社の情報メディア−”. Facebook OGP用 サイト名. 2020年11月29日閲覧。
- ^ 山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社[]
- ^ Gift of John D. Rockefeller Jr., 1941 []