門司城(もじじょう)は、豊前国企救郡門司(現福岡県北九州市門司区大字門司字古城山)に存在した日本の城(山城)。城跡は和布刈公園として整備されている。
門司城 (福岡県) | |
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門司城の石碑と関門海峡大橋 | |
別名 | 門司関山城、亀城 |
城郭構造 | 山城 |
築城主 | (紀井通資) |
築城年 | 1185年(元暦2年) |
主な城主 | (門司氏)、大内氏、大友氏、毛利氏、細川氏 |
廃城年 | 1617年(元和3年) |
遺構 | 石垣、曲輪 |
指定文化財 | なし |
再建造物 | なし |
位置 | 北緯33度57分29.0秒 東経130度58分07.4秒 / 北緯33.958056度 東経130.968722度座標: 北緯33度57分29.0秒 東経130度58分07.4秒 / 北緯33.958056度 東経130.968722度 |
地図 | 門司城 |
概要
沿革
『豊前志』などの記述によれば、1185年(元暦2年)に平知盛が家臣の(紀井通資)に命じて築いたという。
1255年(建長7年)に(藤原親房)が豊前代官職として入城し、(門司氏)(もんじし)を名乗るようになった。南北朝時代には当城の(門司親尚)らが北朝、猿喰城の(門司親頼)が南朝に付いて門司氏は分裂している。
戦国時代には当城をめぐる攻防が続き、1430年(永享2年)に(秋月春種)と(原田信朝)が大内氏を攻めて当城を落とした。その後、大内氏の城として存続するも、1551年(天文19年)の大寧寺の変の後、厳島の戦い、防長経略を経て、毛利氏と大友氏の不可侵条約の条件として豊前国は大友領となり、門司城は大友氏の城となった。しかし、毛利氏は1558年(永禄元年)に小早川隆景を大将として門司城を攻撃。城を奪取し、仁保隆慰を城代とした。
1561年(永禄4年)には戸次鑑連、(田原親堅)、臼杵鑑速ら大友義鎮の軍勢・数万人が門司城を攻めた(門司城の戦い)が、毛利氏はこれを撃退している。この敗戦を契機に大友義鎮は出家して宗麟と号し、将軍足利義輝を仲介しての和睦交渉を進め、1564年(永禄7年)7月に尼子氏との戦いが激化た毛利氏との和睦が成立し、門司城は引き続き毛利氏の勢力下となった。
1600年(慶長5年)に細川忠興が豊前国に入ると、城を修築して(長岡勘解由)を城代におき、1617年(元和3年)に廃城となった。1892年(明治25年)に大日本帝国海軍の下関要塞が築かれたため遺構はほぼ壊滅したが、往事の石垣が一部残っている。
参考文献
- 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典(40.福岡県)』、角川書店、1988年