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松山城 (豊前国)

松山城(まつやまじょう)は、豊前国京都郡松山(現・福岡県京都郡苅田町)にあった日本の城山城)。苅田町指定史跡[1]

松山城
福岡県
別名 神田城、豊前松山城
築城主 藤原広嗣
築城年 740年(天平12年)
主な城主 藤原氏、(神田氏)、平氏城井氏
大内氏大友氏毛利氏黒田氏
廃城年 1606年(慶長11年)
遺構 郭、土塁、石垣、縦堀、石段等
指定文化財 苅田町指定史跡
位置 北緯33度48分21.8秒 東経130度59分08.9秒 / 北緯33.806056度 東経130.985806度 / 33.806056; 130.985806
地図
豊前松山城
(テンプレートを表示)

概要

標高128mの松山山頂付近に主郭があり、二の郭、三の郭が連なっていた。現在では採石場となっており、三の郭や出城は破壊されている。ただ、畝状縦掘りや石段の遺構等も現存している。

本丸跡は東西22メートル、南北32メートルの長方形の平地で、本丸の大手口には石塁が残っていて、本丸城台の東側には高さ3メートルの石塁が現存している。

本丸の北から西、南にかけて3メートルの落差で幅10メートルの腰曲輪があり、さらに東へは幅20メートルほどの曲輪が階段状に続き虎口を経て二の郭に至る。二の郭は東西に35メートル、南北に12メートルで北側、南側は高さ2メートルの土塁で囲まれている。さらに二の郭の東に三の郭、小城が隣接するが、採石のため消滅している[2]

沿革

平安時代から室町時代[3]

伝承では、740年(天平12年)、大宰権帥藤原広嗣が朝廷に反旗を翻した際(藤原広嗣の乱)に築いたとされる。時代は下り、940年(天慶3年)の(藤原純友の乱)に際し、(神田光員)の居城となった。その後は(神田氏)が在城していたが、1157年(保元2年)に平康盛によって滅ぼされた。松山城は康頼の三男・(平信盛)が居城とした。1185年(文治元年)、信盛の子・(平吉盛)は壇ノ浦の戦いに従軍して敗北し、入水自殺を遂げた。1196年(建久7年)頃には、豊前国に下向してきた城井氏の始祖である宇都宮信房が支配した。ここでも松山城は激しい攻防の舞台となり、長野氏当主・(長野直盛)が松山城を支配した。

1336年(南朝:延元元年、北朝:建武3年)、後醍醐天皇建武政権に反旗を翻した足利尊氏が九州に下向、それに従う少弐頼尚は松山城を攻略し、その子・(少弐頼房)を城主に据えた。

周防国大内氏が豊前国を含む北九州地方へ勢力を伸ばすと、豊前国の要衝として松山城を重視し、重臣であった杉氏の(杉興信)を守護代に任じ、城主とした。1398年(応永5年)には(大友氏鑑)が大友親世に反乱を起こした際に氏鑑方の攻撃によって落城、城代の(杉光治)は討死した。大内氏は松山城奪回後、安芸国の国人であった(天野顕義)が入城して、その後に討死した光治の兄である(杉弘信)が入った。その後は杉氏が在城して続き、1551年(天文20年)までその支配が続いた。

戦国時代の到来と毛利・大友氏の狭間で

しかし、陶隆房の謀反(大寧寺の変)で、大内氏当主・大内義隆は自害、1556年(弘治2年)には毛利氏に帰順した松山城主で豊前守護代であった(杉重吉)が大友義鎮配下・田原親宏の攻撃によって敗走、松山城は落城した。

防長経略によって大内領を併呑した中国地方の雄・毛利元就は大内領であった北九州への侵攻を開始、豊前国の要衝であった松山城を攻略して、勇将・天野隆重、杉氏の一族・杉重良を入れた。1562年(永禄5年)に松山城は大友氏の攻撃を受ける。しかし1563年(永禄6年)に、室町将軍足利義輝の斡旋によって、毛利氏と大友氏の間に和睦が成り、松山城は大友氏に引き渡された。

その後は、(長野祐盛)(秋月種実の弟説あり)が城主となったが、毛利氏や大友氏が京都郡に侵攻するに及び、度々従属先を変え続けた。そのため、永禄末期から天正年間にかけて大友氏、毛利氏から大規模な討伐を受け、長野氏は零落した。また、1579年(天正7年)に杉重良が毛利氏に反旗を翻して、松山城を退去して(蓑島城)に入った。重良は高橋元種の攻撃を受けて討死した。嫡男の杉元良は毛利氏家臣として続いたが、豊前国支配に関わっていた杉氏は、ここにその豊前支配を終えた。 1581年(天正9年)、毛利方であった長野祐盛が松山城に籠もる、同じ毛利方の高橋元種を攻撃する事態が起きた。

豊臣秀吉の九州征伐と関ヶ原の戦い、元和偃武

1586年(天正14年)、豊臣秀吉九州征伐を開始。主力であった毛利軍が松山に入ると、近隣の豪族である城井朝房や長野氏等がこぞって帰順。松山城には毛利氏家臣・(仁保元豊)や(湯浅将宗)が入った。島津氏降伏後、松山城は黒田孝高の所領となり、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの後に、豊前国を領した細川忠興の所領となった。

松山城は1606年(慶長11年)に廃城となり、800年に及ぶ城の歴史に終止符を打った。

脚注

  1. ^ 「松山城跡」苅田町公式HP
  2. ^ 廣崎篤夫『福岡県の城』海鳥社、1995年4月14日、80頁。ISBN (4-87415-100-0)。 
  3. ^ 廣崎篤夫『福岡県の城』海鳥社、1995年4月14日、82頁。ISBN (4-87415-100-0)。 

参考資料

  • 新人物往来社 「日本城郭大系18」

関連項目

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