長谷川 峻(はせがわ たかし、1912年4月1日 - 1992年10月19日[1])は、日本の政治家、自由民主党衆議院議員。宮城県栗原郡若柳町(現在の栗原市)出身。正三位勲一等旭日大綬章。
長谷川 峻 はせがわ たかし | |
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生年月日 | 1912年4月1日 |
出生地 | 宮城県若柳町 |
没年月日 | 1992年10月19日(80歳没) |
出身校 | 早稲田大学専門部政経科 |
前職 | 新聞記者 |
所属政党 | (自由党→) 自由民主党(石井派→石原G→三塚派) |
第47代 法務大臣 | |
内閣 | 竹下改造内閣 |
在任期間 | 1988年12月27日 - 1988年12月30日 |
第53代 運輸大臣 | |
内閣 | 第1次中曽根内閣 |
在任期間 | 1982年11月27日 - 1983年12月27日 |
第35・37代 (労働大臣) | |
内閣 | 第2次田中第1次改造内閣 三木内閣 |
在任期間 | 1973年11月25日 - 1974年11月11日 1974年12月9日 - 1976年9月15日 |
(衆議院議員) | |
選挙区 | 旧宮城2区 |
当選回数 | 13回 |
在任期間 | 1953年4月20日 - 1955年1月24日 1958年5月23日 - 1992年10月19日 |
来歴・人物
宮城県築館高等学校 、早稲田大学専門部政経科卒業後、1933年に九州日報社(現 ・西日本新聞社)に入社。記者として活躍。この頃、緒方竹虎、中野正剛との知遇を得て、両雄の下で政治のイロハを学ぶ。1945年、緒方が東久邇宮内閣の国務大臣に就任すると、その秘書官を務めた。内閣では総理大臣の東久邇宮稔彦王の「国民諸君から直接手紙をいただきたい」との意向のもとで緒方のアイデアにより国民からの投書を募っていたが、稔彦王がすべての手紙を読むわけにもいかず、「平衡感覚を持った人」たる元記者の長谷川が手紙の整理役を務めた[2]。また、寄せられ整理された手紙の内容を稔彦王に進講するのも長谷川の役目であったが、その長さはときに3時間にも及ぶこともあった[3]。
1947年九州日報編集局長のため、公職追放となる[4]。追放解除後の1952年の衆議院議員総選挙で宮城2区から無所属で立候補するが落選。翌1953年に自由党から立候補して初当選し緒方を補佐するが、1955年の総選挙で落選、さらに翌年には首相就任を目前にして、師である緒方が急死してしまう。
1958年に国政復帰。自民党では緒方派を継いだ石井派に属す。池田勇人内閣で文部政務次官に就任。佐藤内閣では新東京国際空港(現・成田国際空港)の建設に際し、現在の空港所在地である三里塚案についての自民党政務調査会交通部会での検討に関わったとされる[5]。(→成田空港問題)
1973年の第2次田中角榮内閣第1次改造内閣、1974年の三木内閣では労働大臣、1982年の第1次中曽根内閣では運輸大臣[1]と大臣職を歴任した。
しかし、1988年の竹下改造内閣で法務大臣として入閣した直後、当時世間を騒がせていたリクルート事件に関連し、リクルートからの政治献金が発覚。任命からわずか3日後で閣僚在任期間4日間の短命閣僚となり、戦後政治史では最短在任記録歴代1位となった[注釈 1]。この退任劇は竹下内閣に少なからず影響を与えた。就任時の記者会見で「(リクルートと)ご縁がないからここに居られる」と大口をたたいたことが結果的に命取りとなった。
旧石井派が解消した後は、1979年に中川一郎が中心になって旗揚げした中川派に重鎮として参加。中川派解体後は石原慎太郎らと共に福田派→安倍派へ合流した。安倍の死後、派内で起こった三塚博と加藤六月の後継者争い(三六戦争)では、当時清和会座長であった長谷川の裁定で三塚を会長に推し、決着させた。
1992年10月19日、現職議員として80歳にて死去[1]。当選回数は通算13回。日本遺族会会長も務めた。
また皇居勤労奉仕は、1945年(昭和20年)11月に、長谷川と栗原郡青年団長の鈴木徳一が同道して宮内省を訪れて宮城(現在の皇居)の清掃奉仕を申し出て認められ、長谷川と鈴木が12月に栗原の青年や女性たちをメンバーとした「みくに奉仕団」を結成して宮城内の清掃作業を行ったことがきっかけで始まり、そのことが日本全国に伝わったことで各地から現在のように奉仕団が集り、皇居や御用地などの清掃作業を行うことが定着したと言われている[6]。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 袖井林二郎『拝啓 マッカーサー元帥様 占領下の日本人の手紙』中央公論社〈中公文庫〉、1991年。