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野村芳国 (2代目)

二代目 野村芳国(にだいめ のむら よしくに、安政2年〈1855年〉 - 明治36年〈1903年11月20日)とは、明治時代の浮世絵師画家

来歴

初代野村芳国の門人で養子。俗名は常松、のちに與七(よしち)と改む。錺師長兵衛の子として大坂に生れるが、5歳のとき父を亡くしたことにより、叔父にあたる初代芳国こと粂蔵のもとに引き取られ、芝居の絵看板を描くことになる[注釈 1]。養父芳国は気性の激しい人物で、常松は厳しく絵を仕込まれたという。しかし初代が芝居や手品の興行にも手を出したことにより、野村家は困窮する。

やがて常松は大阪の初代のもとを離れ京都に移り[注釈 2]、芳国を名乗って俗名も與七と改めた。明治18年(1885年)に錦絵の揃物「#京坂名所図絵」を版行しており[3]、絵の枠外には「京都下京五組円福寺前町廿二番戸平民 画者野村與七」とある[3]。これは現在の寺町通錦小路上ル西側にあたる。

京都で芝居の絵看板を描く傍ら、都をどりの舞台背景を製作したり、パノラマ館で見せる戊辰戦争日清戦争パノラマの絵を描いて評判を取った。都をどりの舞台背景は没年まで手掛けており、また晩年には活動写真の興行もした。享年49。墓所はもと東山の西大谷(大谷本廟)にあったが、1971年(昭和46年)に東京築地本願寺和田堀廟所に改葬された。息子に野村芳亭こと粂蔵がおり、父芳国の没後、三代目芳国の名を継ぎ芝居絵の製作に従事したが、のちに映画界に身を投じ映画監督となっている[4]野村芳太郎は孫。

作品

挿絵

  • 『人体道中膝栗毛』[5]、三五月丸(編)、明治19年(1887年)。奥付に「画工 京都府平民 寺町錦小路上 野村芳國画圖」とあり。
  • 『日本昔噺善悪桃太郎』[6]、阿部直秀(訳)、明治20年(1888年)。奥付に「画工 野村芳國」とあり。

錦絵

  • 京坂名所図絵」[3]横大判錦絵揃物。明治18年(1885年)。
次の10点は芳国名義の風景画。近代デジタルライブラリーに収載。

脚注

注釈

  1. ^ 経歴[1]は岡本による遺族からの聞き書き[2]。以下も経歴は同文献に拠る。
  2. ^ 常松が大阪から京都に移った時期は不明。ただし息子の野村芳亭が明治13年(1880年)に京都で生まれているので、これ以前の事と見られる。
  3. ^ 詞書(ことばがき)に初代実川延若の戒名「天遊院延若日輝信士」と命日[8]を載せる。

出典

  1. ^ 岡本 1986, p. 57.
  2. ^ 奥平俊六「日本 : 近世 : 十 美術(一九八六年の歴史学界 : 回顧と展望)」『史学雑誌』第96巻第5号、公益財団法人史学会、1987年、181 (747)、ISSN 0018-2478、NAID 110002368902、OCLC 10.24471/shigaku.96.5_743。 
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m 野村芳国(画)(jpeg)『京阪名所図絵』国立国会図書館デジタルコレクション、池田房治郎、京都https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/26110422020年7月16日閲覧。"10枚 ; 23×33-26×38cm"。 
  4. ^ キネマ旬報 1976, p. 307.
  5. ^ (jpeg)『人体道中膝栗毛』国立国会図書館デジタルコレクション 近代デジタルライブラリー、藤井浅次郎、京都、明19年12月(1886年)。doi:10.11501/882549https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8825492020年7月16日閲覧。"61p ; 14cm"。  インターネット公開(裁定)著作権法第67条第1項により文化庁長官裁定を受けて公開、裁定年月日: 2019/01/25。
  6. ^ 『日本昔噺善悪桃太郎』国立国会図書館デジタルコレクション、福井源次郎ほか、明20年8月。doi:10.11501/1919854https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/19198542020年7月16日閲覧  インターネット公開(保護期間満了)
  7. ^ 豊川芳国 (1885年). “京阪名所図絵 大坂坂町慈安寺妙見堂之図”. 演劇博物館デジタル. 2020−07−16閲覧。 “「明治十八年九月十八日 午後五時死去 中寺町円妙寺」「天遊院延若日輝信士」「行年五拾四歳四ヶ月」”
  8. ^ “第70回企画展【実川家の役者たち】2018年12月4日–2019年3月3日”. 上方浮世絵博物館. 2020年7月16日閲覧。 “初代実川延若(天保2年1831~明治18年1885)二代目実川額十郎(入門時は延三郎)に入門し、実川延次を名乗る。安政3年(1856)、六代目市川団蔵に伴われ江戸へくだり、四代目中村芝翫に師事し中村延雀と改名。安政6年には四代目尾上菊五郎の養子となり尾上梅幸を名乗るが、文久元年(1861)には大阪へ戻り二代目額十郎の門下へ復帰し、文久3年に師の俳名である実川延若を襲名した。
    (中略)上方和事の名手として幕末から明治初期にかけて人気を誇った。明治18年9月18日に病没。天遊院延若日輝信士。享年54歳
    少し顎の出た顔には愛嬌があり、浮世絵にもその魅力がよく描かれている。”

参考文献

  • 「野村芳亭」『日本映画監督全集』キネマ旬報社〈『キネマ旬報』〉、1976年、307頁。  増刊12・24号
  • 岡本祐美「野村芳国伝」『研究紀要』第1号、麻布美術館、1986年、57頁。 
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