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近藤宮子

近藤宮子(こんどう みやこ、1907年3月21日 - 1999年4月8日)は、日本唱歌作詞家。唱歌『チューリップ』、『こいのぼり』作詞者。  

来歴

国文学者の父・藤村作広島高等師範学校(後の広島大学)へ教授として赴任した1907年広島県広島市国泰寺町(現在の中区国泰寺町)に出生。母・季子は広島高師附属中学山中高等女学校音楽教師を務めた。1910年、父が東京帝国大学文学部助教授に転任、東京市千駄ヶ谷に転居。1931年、父の教え子で東京音楽学校(後の東京芸術大学音楽学部)講師・国文学者の近藤忠義と結婚、専業主婦となる。

同年8月末か9月初め頃、当時幼稚園唱歌研究部に関わっていた父から夫・忠義を介して子供のための作歌を頼まれる[1]。当初一般公募をしたが、よい作品は少なく唱歌研究部委員だった作曲家福井直秋が懇意の藤村作に頼んだものが宮子にまわってきた[2]。作歌中満州事変が勃発。約1ヶ月の間に『チューリップ』、『こいのぼり』、『オウマ』など10編を作歌、作品を協会に提出し全て採用された。

その後専業主婦として激動の時代を送る。夫の忠義のみならず、弟の赤城さかえ左翼活動に関与し心を痛めた。1932年、宮子の作った作品は全て無名著作物として公表される。同年東京高等師範学校附属小教師・井上武士が『チューリップ』を作曲。作詞者不詳のまま出版された。

1940年代後半に日本音楽著作権協会が本格的に活動を開始、無名の著作物に関しては、作者から名乗りを上げていく流れとなった。しかし宮子は多くの作品が作者不詳でもあり、歌いつがれていくならよし、と思いこの後も名乗りでる事はなく過ごした。

1960年代に入り更に著作権の改正問題が起きた。『チューリップ』などの人気曲は日本教育音楽協会の貴重な財源でもあり、当時のこの協会の人物が著作権の延命を図るため『チューリップ』などの作品を自らの作詞として登録してしまった。

1931年に作歌してほぼ40年後の1970年著作権法が約70年ぶりに全面改正され公布が決定、著作権の記事が出始め、一般にもよく知られることとなる。この頃、赤旗編集部の記者をしていた宮子の長男・創が子供の時、こいのぼりの作詞はお母さんよ、と聞かされたと他の記者に話すと興味を持たれ、取材後記事として世に出て大きな注目を集めることとなった。

ウソはいけないと1983年、宮子76歳で裁判を起こす。控訴上告が続くが1993年、相手が上告せず、宮子の勝訴が確定、正式に『チューリップ』、『こいのぼり』ほか全作品の作者として認められた。この時86歳、大きな話題となった。殆ど物証が無いにも関わらず裁判官が心証によって判決を断定した珍しいケースであった。1999年死去。享年92。

なお『こいのぼり』の作曲者は今も不明なほか、唱歌・童謡には現在も作者不詳のものが多数ある。

脚注

  1. ^ 大家 2004, p. 4.
  2. ^ 大家 2004, p. 14.

参考文献

  • 大家重夫『唱歌『コヒノボリ』『チューリップ』と著作権――国文学者 藤村 作と長女 近藤宮子とその時代』全音楽譜出版社、2004年。ISBN (4-11-880301-1)。 
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