人物
嵯峨源氏渡辺氏流近江赤田氏の最後の当主であり、豊郷四世とされる。父は(赤田姓)(信光)で、妻は丹羽長秀の娘(決光院)とされる。
父祖の代のとき、主君であった浅井氏は織田信長によって滅ぼされたため、堅は浪人の身であったが織田方に就き、丹羽長秀の家臣となった。豊臣秀吉の天下統一後は五千石をもって秀吉に召し抱えられるが、仕官後程なくして死去。残された子息四人は皆幼かったため所領は没収され一族離散の憂目となったという。その後、慶長五年に関ヶ原の戦いが起こると堅の子・(虎之助)は、赤田氏再興を図って西軍に属し力戦したが、合戦は西軍の敗北に終わり再興は頓挫、近江赤田氏は下野することになった[1]。
また、堅や虎之助について、飛騨高山赤田氏の(赤田源敬)[2]はその存在自体を後世の創作かつ架空のものであると述べている[3][4]。
飛騨赤田氏と名乗る人物は赤田氏系図にはなく傍系にも記録は無し。1級資料もなく赤田一族の根拠もない創作と思える。江戸後期に常禅寺きて赤田氏の事を尋ねたといわれ詳細は不明。飛騨赤田氏が嫡流家と主張しているが
1級文書で証明されていない。また全国に赤田本家と名乗る家は5家存在する。歴史研究家黒田惟信先生の赤田氏調査による報告書は戦国時代赤田氏の1級文書は6点と記されている。いずれにせよ1級古文書・当時の遺跡等で証明が必要と思われる。
脚注
参考文献
- 『多賀町史 上巻』、多賀町史編さん委員会、1992年。
- 武田光弘『赤田一族』、日本家系家紋研究所、1982年。
- 『二本松市史 第5巻』、1900年。
- 藤川助三『豊郷村史』、滋賀県豊郷村史編集委員会、1963年。
関連項目
- 渡辺了 - 同族とされる。