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生涯
(赤川房信)の次男として生まれ、兄の(元光)が討死すると家督を相続した。大永3年(1523年)、主家の毛利幸松丸が死去した際に、毛利元就に家督相続を要請した宿老15名の内の1人[1]。
毛利氏が大内氏から尼子氏に鞍替えした大永4年(1524年)に、尼子氏への人質として月山富田城に送られる。しかし、大永5年(1525年)に毛利氏は尼子氏の傘下を離脱する事になった。そのため就秀は同じく人質となっていた光永秀時らと共に出雲国から逃亡を謀るも、尼子軍の追撃を受け、就秀以外は逃亡に失敗して討死した。
享禄5年(1532年)7月13日の毛利氏家臣団32名が互いの利害調整を元就に要請した連署起請文では24番目に「赤川十郎左衛門尉就秀」と署名している[2]。
天文11年(1542年)の(第一次月山富田城の戦い)に従軍して、出雲国内の地理案内を務めた。また月山富田城の詳細を知る人物であったため、重宝された。天文24年(1555年)の厳島の戦いの後から始まる防長経略にも従軍し、須々万沼城攻略戦にも参加し、大内軍と激しい戦いを繰り広げている。
没年は不詳。家督は嫡男・元秀が継いだ。また、三男の(元通)は、就秀の弟であり毛利隆元の急死に連座して自害した赤川元保の跡を継いだ。
系譜
脚注
- ^ この時連署状に署名した15名の宿老は、署名順に(福原広俊)、中村元明、坂広秀、渡辺勝、粟屋元秀、赤川元助(元保)、井上就在、井上元盛、赤川就秀、飯田元親、井上元貞、井上元吉、井上元兼、桂元澄、志道広良。
- ^ 『毛利家文書』第396号、享禄5年7月13日付 福原広俊以下家臣連署起請文。この時連署状に署名した32名は、署名順に(福原広俊)、志道広良、桂元澄、(福原元勝)、坂広昌(元貞)、(山中元孝)、(光永元隆)、北就勝、井上元吉、粟屋元秀、井上就在、長屋吉親、井上元盛、井上元貞、国司有相、井上有景、井上元続、井上俊秀、井上良在、井上俊久、(国司就連)、粟屋元親、粟屋元国、赤川就秀、(飯田広親)、赤川元助(元保)、佐々部祐賢、(南方親州)、内藤元康、(秋山親吉)、(三田元実)、(井原元師)。