解 婁(かい ろう、ヘ ル、朝: 해루、紀元前55年 - 紀元後34年[1])は、百済の家臣。百済の開国功臣10名中の一人で、大姓八族中の一つである(解氏)出身の家臣として『三国史記』「百済本紀」の中で初めて登場する人物である。
生涯
もとは夫余人[2][1][3][4][5]。百済5部の北部に属していた[4][5]。温祚王41年(23年)春正月、(右輔)の職位を授かっていた(乙音)が亡くなると、79歳で右輔の地位に昇った[4][5]。彼は、識見が神のように極めて深く、齢70を超えても力が充実していたので、王は彼を登用した[4][5]。温祚王が亡くなり、多婁王が即位した後も右輔の職位に留まり、多婁王7年である34年、90歳を一期に亡くなる[6][7]が、その時まで11年の間、宰相職を遂行していたことになる。右輔の後任には東部に属する(屹于)が充てられた[6][7]。
脚注
- ^ a b “해루 解婁,BC 55~AC 34”. 斗山世界大百科事典 2022年10月4日閲覧。
- ^ “해루(解婁)”. 韓国民族文化大百科事典 2022年10月4日閲覧。
- ^ . 国史編纂委員会. オリジナルの2022年11月22日時点におけるアーカイブ。
- ^ a b c d 金富軾 著、井上秀雄 訳『三国史記』 第2巻、平凡社〈東洋文庫425〉、1983年、282頁。ISBN (4-582-80425-X)。
- ^ a b c d 『三国史記』巻二十三・「百済本紀」一・百済始祖温祚王四十一年春正月. - .
- ^ a b 金富軾 著、井上秀雄 訳『三国史記』 第2巻、平凡社〈東洋文庫425〉、1983年、284頁。ISBN (4-582-80425-X)。
- ^ a b 『三国史記』巻二十三・「百済本紀」一・多婁王七年春二月. - .