経歴・人物
地元・熊本県の強豪校である熊本工業高に進学するつもりだったが、福岡県・柳川高の福田監督の誘いもありそちらに進学。
1986年は、県大会打率.438を記録。同年オフに、ドラフト外で阪神タイガースに入団。高校通算13本塁打。荒削りだが長打力があり、「九州の清原」と呼ばれ、阪神の次代を担う選手として期待された大型の一塁手だった。186cmと大柄の割には脚も速かった。高校同期に樽見金典、西村英嗣の両投手がいた。
1987年は、二軍で24試合に出場し、打率.150、1打点。
1988年は、3月の教育リーグでスタメン出場するも、一軍公式戦での出場はなし。二軍では35試合に出場し、打率.203、2打点。また、同年8月30日、対南海ホークス戦において左第1中手骨を骨折し、全治6週間。秋季キャンプを棒に振った。
1989年も一軍公式戦への出場がなく、二軍でも9試合の出場に留まり、打率.143。オフに自由契約となり、現役を引退した。
明るく声も大きく、二軍ベンチの野次将軍として人気があった。
引退後は、掛布企画を経て熊本市九品寺で鮮魚店を営む傍ら、藤崎八旛宮秋季例大祭の奉納団体である(随兵蛇の目會)の会長代行を務めている。
詳細情報
年度別打撃成績
- 一軍公式戦出場なし
背番号
- 63(1987年 - 1989年)