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西御門 (鎌倉市)

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西御門(にしみかど)は神奈川県鎌倉市鎌倉地域にある大字雪ノ下の北部に位置する。現行行政地名は西御門一丁目及び西御門二丁目。住居表示実施済み区域[5]郵便番号は248-0004[3]

西御門
西御門
西御門の位置
北緯35度19分50.88秒 東経139度33分39.67秒 / 北緯35.3308000度 東経139.5610194度 / 35.3308000; 139.5610194
日本
都道府県 神奈川県
市町村 鎌倉市
地域 鎌倉地域
面積
 • 合計 0.33 km2
人口
2018年(平成30年)1月1日現在)[2]
 • 合計 1,016人
 • 密度 3,100人/km2
等時帯 (日本標準時)
郵便番号
248-0004[3]
市外局番 0467 ((藤沢MA))[4]
ナンバープレート 横浜

地理・歴史

地名の由来は、鎌倉幕府の鎌倉(大倉)御所の西門があったことから転じ、西門前を南北に通ずる西御門大路の北方の地域を指した。

吾妻鏡によると文治2年(1186年)正月5日に「美濃藤次安平西御門家」と記されているのが初見である。建保元年(1213年)5月4日、将軍源実朝は西御門に赴き、和田合戦で傷付いた武士の実検を行っている。

元仁元年(1224年)9月5日子ノ刻に三浦義村の「西御門亭」が焼失。暦仁元年(1238年)正月10日には、義村亭の他に後藤基清、(三浦家村)らの居宅が罹災。義村亭を譲り受けた三浦泰村は、宝治元年(1247年)の合戦で敗れて居宅を焼失。

応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱では、禅秀に加担した足利満隆持仲義堂周信開祖の保寿院で挙兵。享徳3年(1454年)には関東管領上杉憲忠鎌倉公方足利成氏の西御門亭で殺害される(享徳の乱)。

戦国時代には建長寺の所領があり、天正18年(1590年)4月、豊臣秀吉小田原征伐に際し、二階堂郷中の一つである当地に禁制を下し、掌握しようとした。正保国絵図には「西御門村」が記録されている。いつの頃からか二階堂浄明寺十二所とともに「谷合(やつあい)四ケ村」と称された。

明治22年(1889年)の町村制施行で東鎌倉村に属した。明治27年(1894年)の鎌倉町誕生で大字となり、昭和14年(1939年)から鎌倉市の町名となる。昭和43年(1968年)1月1日の住居表示に伴い西御門一丁目-二丁目となった。

世帯数と人口

2018年(平成30年)1月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[2]

丁目 世帯数 人口
西御門一丁目 250世帯 617人
西御門二丁目 152世帯 399人
402世帯 1,016人

小・中学校の学区

市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[6][7]

丁目 番地 小学校 中学校
西御門一丁目 全域 (鎌倉市立第二小学校) (鎌倉市立第二中学校)
西御門二丁目 全域

施設

寺社・旧跡

その他

  • (鎌倉市立第二中学校)

著名な住人

  • 三浦義村
  • 三浦泰村
  • 北条義時
  • 里見弴

参考文献

  • 奥富敬之 『鎌倉史跡事典』 新人物往来社 1999
  • 三浦勝男編 『鎌倉の地名由来辞典』 東京堂出版 2005

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ “平成28年(2016年)版鎌倉の統計”. 鎌倉市. 2018年2月22日閲覧。
  2. ^ a b “鎌倉の人口と世帯数(地域・町丁・字別)”. 鎌倉市 (2018年1月26日). 2018年2月22日閲覧。
  3. ^ a b “郵便番号”. 日本郵便. 2018年2月22日閲覧。
  4. ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2018年2月22日閲覧。
  5. ^ “鎌倉市の町名称及び住居表示の実施状況”. 鎌倉市 (2017年2月7日). 2018年2月22日閲覧。
  6. ^ “鎌倉市の市立小学校通学区域”. 鎌倉市. 2017年7月6日閲覧。
  7. ^ “鎌倉市の市立中学校通学区域”. 鎌倉市. 2017年7月6日閲覧。
  8. ^ “法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)”. 国指定文化財等データベース / 文化庁. 2022年8月4日閲覧。
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