この記事は(検証可能)な(参考文献や出典)が全く示されていないか、不十分です。(2016年11月) |
生涯
嘉永3年(1850年)、第7代藩主西尾忠受の長男として生まれる。文久元年(1861年)10月13日、忠受の死去により家督を継ぐ。文久3年1月15日、将軍徳川家茂に拝謁する。同年12月16日、従五位下・隠岐守に叙任する。
幕末の動乱期で藩内では佐幕派、尊王派が抗争を続け、慶応4年(1868年)の戊辰戦争においても両派の抗争が続いたが、(八十美穂)や(青山善一郎)らによる佐幕派への説得もあって、横須賀藩は新政府に協力した。慶応4年(1868年)9月5日、徳川家達が東海地方に封じられたため、忠篤は安房花房に移封となった。
明治2年(1869年)の版籍奉還で知藩事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で免官となった。やがて東京へ移った。1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した[1]。
明治43年(1910年)11月5日に死去した。享年61。はじめ池田茂政次男の勝順を養子に迎えていたが離縁し、加藤泰秋四男の忠方が家督を継いだ。
家族
父母
- 西尾忠受(父)
妻
- 松平瑟子 ー 松平親良の娘(前妻)
- 堀越明子 ー (堀越角次郎)の娘(後妻)[要出典]
養子