生涯
蜂須賀隆喜(第2代藩主・蜂須賀忠英の五男)の三男。幼名は勘次郎、初名は隆泰(たかやす)。号は潜外、通称は宮内。はじめは中老や家老として藩政に参画していたが、若くして隠居し京都などに住んだ。
享保20年(1735年)6月10日、蜂須賀宗員の死去に際し末期養子となり、52歳で徳島藩第7代藩主となった。同年8月15日、将軍・徳川吉宗に御目見した。同年12月11日、従四位下・阿波守に叙任した。後に侍従に任官した。同日、徳川吉宗の偏諱を受けて宗英(「英」は祖父・忠英の1字を取ったもの)と改名した。
元文4年(1739年)12月22日、隠居し、養子宗鎮に家督を譲る。隠居後は潜外と号した。
蜂須賀宗英と清浄華院
蜂須賀宗英の墓は京都の清浄華院にあり、これは歴代徳島藩主で唯一、徳島以外にある墓である。宗英の娘・友姫の嫁ぎ先の公家・東園基楨が清浄華院の檀家であり、友姫が葬られているという縁である(友姫の死は宗英が藩主になる以前のことである)。また、前述のように自身も藩主になる以前、京都に住んでいたことがある。宗英の墓参りのため、以降の歴代藩主は京都を訪れるようになった。
2011年3月、清浄華院の境内に徳島藩主ゆかりの蜂須賀桜が植樹された。
系譜
参考文献
- 『蜂須賀家記』
外部リンク
- 清浄華院 清浄華院の逸話