蘇我 善徳(そが の ぜんとこ)は、飛鳥時代の豪族。蘇我馬子の長男。子に、志慈[1]、果安[2]がいたとする文献がある。飛鳥寺(法興寺)の初代寺司(てらのつかさ、司長)。
経歴
『日本書紀』巻第22には「推古四年冬十一月 法興寺造竟 則以大臣男善徳臣拝寺司 是日恵慈 恵聡二僧 始住於法興寺(冬十一月、法興寺 造り竟(おは)りぬ。則(すなは)ち大臣の男 善徳臣を以て寺司に拝す。是の日に、恵慈 、恵聡、二の僧、始めて法興寺に住り。)」とある。
『日本書紀』巻第22,推古天皇18年(610年)の記事に現れる蘇我蝦夷の年齢は、『扶桑略記』の記述によると25歳となり、推古天皇4年(596年)における蝦夷の年齢は11歳となることから、善徳が蝦夷の兄と推定されている[3]。
異説
学術論文ではないが、聖徳太子=蘇我入鹿=蘇我善徳、とみて聖徳太子・蘇我入鹿と同一人物(厩戸皇子は別人)とする意見がある[4][5]。
また蘇我馬子自身が聖徳太子という著書もある。