藤田 俊訓(ふじた しゅんくん、? - 1975年2月[1])は、日本の僧侶(曹洞宗)・大学経営者。佐賀県杵島郡大町町出身[2]。
エピソード
大正年代には曹洞宗大学(後の駒澤大学)において、広川弘禅らと共に同大学の単科大学昇格運動に積極的に関わっていた[5]。
賢崇寺住職としては、二・二六事件でクーデターに参加し後に処刑された、いわゆる「二十二士」の埋葬許可を得るため、栗原安秀の父・栗原勇と共に関係各所を奔走し、合同慰霊祭の開催にこぎつけたことで知られる[3]。この縁から、現在も二十二士の墓碑は賢崇寺に置かれている。戦時中は当時の宗立世田谷中学校(現在の世田谷学園中学校・高等学校)教頭も兼任していた[6]。
1958年(昭和33年)3月、駒澤大学学監に就任し、亡くなるまで務めた。在任中は駒澤大学の北海道進出に尽力し、駒澤大学附属苫小牧高等学校・駒澤大学附属岩見沢高等学校の2校を開校したほか、駒沢大学駅の開設にも深く関わった[6]。駒沢大学駅の開設が決まった際には「百年先までの広告料を考えれば駒澤大学の宣伝価値は計り知れない」とも語ったという[6]。
駒澤大学硬式野球部においても、名監督として知られる太田誠を招聘したほか[4]、森繁和[7]などの選手の発掘に関わっている。