藤原 長忠(ふじわら の ながただ)は、平安時代後期の公卿。藤原北家御堂流、内大臣・藤原能長の次男。官位は従三位・権中納言。
経歴
白河天皇の御世、後三条天皇擁立に功のあった藤原能信の孫である長忠は昇殿を聴され、兵衛佐に任官。従四位下に叙せられた。応徳3年(1087年)堀河天皇の即位後しばらくは昇殿を止められていたが、康和3年(1101年)に権右中弁に任ぜられた後、再び昇進を始めた。
康和4年(1102年)右中弁に転じ、康和5年(1103年)従四位上に昇叙。長治3年12月(1107年1月)には左中弁に昇任し、率分勾当や装束使を経て、天仁2年(1109年)右大弁に進む。嘉承2年(1107年)に鳥羽天皇が即位した際には蔵人・藤原為房と共に奉行役を務めた。(備中権介)を兼任し、天永2年12月(1112年1月)に参議に任ぜられて公卿に列し、翌年には鳥羽・白河両院の昇殿を聴された。天永4年(1113年)(越前権守)を兼帯。
永久2年(1114年)正四位下に昇叙。左大弁・大蔵卿・勘解由長官・(周防権守)など多く要職を兼帯し、元永3年(1120年)従三位に昇叙される。同年末には権中納言に進むが、任官から僅か四、五日をもって子・(能忠)の権右少弁任官と引き換えに辞職する[1]。
逸話
『十訓抄』によれば、堀河院の御会にて、長忠は歌の題を選ぶよう命ぜられて「夢の後の郭公」という題を選んだという。「夢の後」とは後生を意味するとして不吉とされ[2]、その後ほどなくして堀河天皇は崩御したといい、「禁忌の詞を除きて、越度なきよう思慮すべき」を説く際に、「禁忌の詞」の一例として挙げられている[3]。
官歴
※以下、註釈のないものは『公卿補任』の記載に従う。
- 白河院御時(10--年):昇殿を聴し、兵衛佐に任じ、従四位下に叙す[1]。
- 康和3年(1101年)2月9日:権右中弁に任ず[4]。
- 康和4年(1102年)6月13日:右中弁に転ず[4]。
- 康和5年(1103年)7月25日:従四位上に叙す(興福寺供養行事賞)[4]。
- 長治3年12月17日(1107年1月12日):左中弁に転ず[4]。12月28日:率分勾当・装束使に転ず[4]。
- 嘉承2年(1107年)正月-日:備中権介を兼ぬ[4]。
- 嘉承3年(1108年)2月5日:修理左宮城使に任ず[4]。
- 天仁2年(1109年)正月23日:右大弁に転ず[4]。
- 天永2年12月26日(1112年1月26日):参議に任ず[4]。
- 天永3年(1112年)2月11日:昇殿・院昇殿を聴す[5]。
- 天永4年(1113年)正月28日:越前権守を兼ぬ。
- 永久2年(1114年)正月5日:正四位下に叙す(参議労)。
- 永久3年(1115年)8月13日:左大弁に転じ、大蔵卿を兼ぬ。12月:勘解由長官を兼ぬ。
- 永久5年(1117年)正月19日:周防権守を兼ぬ(弁労)。
- 元永3年(1120年)正月6日:従三位に叙す(参議労)。12月17日(1121年1月7日):権中納言に任ず。大蔵卿如故。
- -年(112-年)-月-日:権中納言を辞す。
- 大治4年(1129年)10月5日:出家。
系譜
『尊卑分脈』による。