藤原 師氏(ふじわら の もろうじ)は、平安時代前期から中期にかけての公卿・歌人。関白太政大臣・藤原忠平の四男。邸宅名の桃園第に因んで桃園大納言、あるいは枇杷大納言と称される。
経歴
延長6年(928年)正月に16歳で叙爵し、翌延長7年(929年)侍従に任じられる。承平4年(934年)従五位上・左近衛少将に叙任されると、天慶2年(939年)従四位下、天慶4年(941年)蔵人頭兼左近衛中将と官位を進め、天慶7年(944年)参議に任ぜられて32歳で公卿に列する。
しかし、翌天慶8年(945年)弟・師尹が26歳で参議に任ぜられると、天暦2年(948年)には師尹が師氏に先んじて権中納言に任官され、以降は常に師氏の方が官職が下位となった。その後、天暦9年(955年)従三位・権中納言、天徳4年(960年)中納言、康保元年(964年)正三位と昇進するが、康保4年(967年)には、兄・師輔の嫡男・伊尹が新帝(冷泉天皇)の外伯父として権大納言に抜擢されたことで、甥の後塵をも拝することになった。
安和2年(969年)権大納言、天禄元年(970年)正月には大納言に至るが、同年7月14日(薨去)。享年58。最終官位は大納言正三位皇太子傅。『宇治拾遺物語』には、近衛大将任官の饗宴の2日前に歿したとあるが、『公卿補任』等の史料には、近衛大将任官の記載はない。兄弟の実頼・師輔・師尹が大臣まで栄進したのに対し、師氏の極官は大納言に止まる。醍醐天皇の皇女である靖子内親王を降嫁されており、内親王の降嫁は兄・師輔に次いで史上2人目であったが昇進には繋がらず、師氏は官位昇進については不遇であった事が窺える。
人物
『空也誄』に空也と二世の契りがあった事、『空也誄』『古事談』等に、師氏薨去に際して、空也が閻魔大王に送る牒文を書いたと伝えている。また、『蜻蛉日記』には、師氏が宇治に別荘を有していたものの、歿後荒廃してしまったと記す。
和歌に優れ、『和歌色葉集』に名誉歌仙と記載され、『後撰和歌集』『新古今和歌集』等の勅撰和歌集に11首入集。また自身で編んだ私家集『(海人手古良(あまのてこら)集)(師氏集)』がある。
官歴
注記のないものは『公卿補任』による。
年紀 | 補任など |
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延長6年(928年) | 正月7日:叙爵 |
延長7年(929年) | 9月23日:侍従 |
延長8年(930年) | 9月23日:昇殿 |
承平4年(934年) | 正月7日:従五位上(中宮御給) 閏正月29日:左近衛少将 |
承平5年(935年) | 2月23日:兼(近江権介) |
承平7年(937年) | 正月27日:正五位下 |
天慶2年(939年) | 正月7日:従四位下。2月5日:昇殿 |
天慶3年(940年) | 3月25日:兼(美濃守) |
天慶4年(941年) | 3月15日:蔵人頭(朱雀天皇) 3月28日:左近衛中将 |
天慶6年(943年) | 正月7日:従四位上 |
天慶7年(944年) | 4月9日:参議 |
天慶8年(945年) | 3月28日:兼(伊予守) |
天暦2年(948年) | 正月30日:兼右衛門督 |
天暦3年(949年) | 8月14日:服解(父忠平薨去) 10月2日:復任 |
天暦4年(950年) | 正月7日:正四位下 |
天暦5年(951年) | 正月30日:兼(大和権守) |
天暦9年(955年) | 2月7日:従三位。権中納言、右衛門督如元 |
天徳元年(957年) | 4月25日:兼左衛門督 |
天徳4年(960年) | 8月22日:中納言、左衛門督如元 |
康保元年(964年) | 正月7日:正三位 |
康保4年(967年) | 9月1日:兼春宮大夫 |
安和元年(968年) | 正月13日:兼按察使 |
安和2年(969年) | 2月27日:権大納言、左衛門督・春宮大夫・按察使如元 11月11日:兼皇太子傅 |
天禄年(970年) | 正月27日:大納言 7月14日:(薨去)(大納言正三位皇太子傅)[1] |
系譜
『尊卑分脈』による。
脚注
- ^ 『日本紀略』