蒙求(もうぎゅう)は、伝統的な中国の初学者向け教科書である。日本でも平安時代以来長期にわたって使用された。日本で広く知られている「(蛍雪の功)」や「(漱石枕流)」などの故事はいずれも「蒙求」に見える。
概要
『蒙求』の著者である李瀚については、ほとんど何もわかっていない[1]。上表文に「天宝五年」(746年)と記されていることから、8世紀前半の成立と考えられている(ただし、この日付を疑う説もある)。
題名は『易経』の「蒙」卦辞「匪我求童蒙、童蒙求我」による。
本文は四字一句の韻文で、596句2384字からなる。偶数句の句末で押韻し、結語にあたる最後の4句以外は8句ごとに韻を変えている。内容は古人の逸話をきわめて短い言葉で羅列したもので、実際の逸話そのものは注に書かれている。
宋代には蒙求は代表的な教科書であり、蒙求に範を取った『十七史蒙求』[2]なども作られた。
明末になると、学習書の主流は三字経などに移り、蒙求は忘れられていった。
現存の写本でもっとも古いのは敦煌の唐五代残巻である。印刷物としては山西省の応県仏宮寺木塔から発見された遼刻本が古い[3]。
日本での受容
『日本三代実録』の元慶2年(878年)に貞保親王(清和天皇の第四皇子、当時数え9歳)がはじめて蒙求を読んだという記事が見える。これが日本で蒙求が読まれた最古の記録である。平安時代以降代表的な学習書として珍重され、「勧学院の雀は蒙求をさえずる」(宝物集などに見える)と言われるほどであった。
中国では明代以降ほかの学習書に蒙求は淘汰されてしまったため、敦煌の残巻などを除くと古いテキストはほとんど日本のものである。
現存最古のテキストは東京国立博物館蔵の長承3年(1134年)奥書本で[4]、冒頭の8句以外の本文が残っており、10世紀の声点と主に12世紀の仮名による音が付されている。
伝統的に蒙求の本文は漢音で音読する習慣があり、音注がつけられているテキストが多いため、『理趣経・大孔雀明王経』などと並んで、古い漢音を知るための資料として重要である。有坂秀世が正倉院蔵の蒙求につけられた仮名を利用して、従来の韻書から演繹的に求めていた漢字音や字音仮名遣いの問題点を指摘したことはよく知られている。
鎌倉時代初期に源光行は『蒙求和歌』を著した。これは蒙求から250の故事を選んで内容別にまとめ直し、故事の内容を和文で記した上で和歌を加えたものである。
16世紀には『蒙求抄』という抄物(講義記録)が作られた。室町時代の日本語の口語研究資料として重要である。
テキストは注の内容によって、本文のみのもの・古注本・補注本などに分かれる。補注は南宋の徐子光によるもので、日本には16世紀に伝来し、江戸時代にはもっぱら補注本のみが行われるようになった。