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葛根廟事件

葛根廟事件(かっこんびょうじけん)は、1945年8月14日満洲国興安総省の葛根廟[注釈 1]付近において日本人避難民約千数百人(9割以上が婦女子)が攻撃され、1,000名以上が虐殺された事件[1][2][3]。避難民の約9割以上が女性や子供であった[1]。ソ連軍が去った後に、生存者も自決したり[4]中国人暴民やソ連兵などの襲撃を再び受けたりして、日本帰還を目指す多くの日本人居留民が犠牲となった。

満洲国興安総省(現中国内モンゴル自治区ヒンガン盟
葛根廟と興安街の位置(1944年作成の満洲国地図)

8月14日の葛根廟事件、8月17日の(東京荏原開拓団)964名の遭難((双明子事件))、8月25日の仁義佛立講開拓団400名の遭難(洮南西方20キロ)とをあわせて、「総省三大遭難事件」[5][6]、「興安三事件」[7]、「興安省における三大遭難事件」[8]と呼ばれる。

事件の経過

 
葛根廟(1940年頃)
 
葛根廟。(白阿線)(中国語版)(葛根廟駅)(中国語版)北方約3kmの龍山の麓に建っている。東蒙第一と称される壮麗で規模宏大なチベット仏教の寺院()。清の雍正元年(1723年)当時強大を誇ったチベット仏教勢力を懐柔去勢の目的で創建されたものと言われる。背面に興安嶺の支脈を負い、全面には一望千里の草原が海のように連なり、廟はあたかも陸の竜宮のように屹立していた。廟は5つの寺より成り、1940年ごろには約500人のチベット仏教の僧侶(ラマ)がいた。毎年春秋2回行われていた廟会には近郊より参詣客が押し寄せ、広大な敷地が埋もれてしまうほど盛大だった[9]

1945年8月8日ソ連日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦を布告し、さらに8月9日未明に満洲国、朝鮮半島樺太などに侵攻を開始した。

8月10日11日の両日、興安(別称、興安街ないし王爺廟。後の内モンゴル自治区ヒンガン盟のウランホト)が爆撃を受け、興安の都市機能はほぼ破壊された。11日午後4時、興安街在住の日本人約千数百人が近郊のウラハタに集結、興安総省参事官(浅野良三)の指揮の下、行動隊が組織された。

行動隊の当初の目的地は北東へ約100キロメートル離れたジャライド旗(扎賚特旗)だったが、12日からの降雨や興安軍による馬車の略奪などにより計画を変更。興安街の南東約40キロメートルに位置する葛根廟を経由し列車(白阿線)(中国語版))で白城子(後の吉林省白城)へ避難、同地で関東軍の保護を受けつつ列車でさらに南下するという計画を立て、徒歩で移動を開始した。

8月14日午前11時40分頃、行動隊が葛根廟丘陵付近まで到達したところで、ソ連軍中型戦車14両とトラック20台に搭乗した歩兵部隊に遭遇したため、浅野参事官は白旗を掲げたが、機関銃で射殺された。ソ連軍は丘の上から行動隊に対し攻撃を開始し、戦車が機関銃で攻撃を加えながら、避難民を轢き殺していった。戦車の後方からは、ひき殺された人々がキャタピラに巻き込まれ宙に舞いだしたという。ソ連軍戦車は攻撃をある程度続けると、丘に引き返し、何度も避難民めがけて突入しながら攻撃を繰り返した。戦車による襲撃が止むとトラックから降りたソ連兵が生存者を見つけ次第次々と射殺し、銃剣で止めを刺していった。2時間余りの間に非武装の女性、子供を主体とした1,000人以上が殺害され、生存者は百数十名にすぎないとされている。殺害を免れた者も戦車に轢かれたり、被弾して負傷したものや、家族が殺害されたものがほとんどであり、大勢が自決した。犠牲者のうちの200名近くの児童は、興安街在満国民学校の児童であった[10]。護衛・反撃に回るはずの肝心の関東軍部隊は既に南転済みであった[11]

生存者に対する襲撃も執拗を極めた。生存者は、中国人によって、身につけている下着にいたるまで身ぐるみ全てを剥がされるなどした。また、逃れようとして川で溺死した者もいた[12]。ある女性はソ連兵に子供を殺され、続いて襲ってきた中国人に衣服を全てはぎ取られた上に乳房を切り落とされている[13]。中国人たちは、生き残った母子を見つけると母親を棒で殴りつけ、子供を奪っていった[12]。親を殺された子供達は、生き残った大人のもとに集まっていたが、中国人たちはその子供たちをも同様に奪っていった[12]。当時は日本人の男児は300円、女児は500円で売買されるのが一般的であった[14]

8月15日の終戦後も、避難民に対する襲撃は続いた。事件後に10人余りの婦女子の一団に加わった12歳の少女の証言によると、少女が加わった女性たちの一団は、暴民に襲われて衣服を奪い取られ暴行を受けるなどしながら、一週間余りをかけて(葛根廟駅)(中国語版)から10キロのところにある(鎮西駅)(中国語版)にたどりついた。女性たちは駅から少し離れたところにある畑の空き家に身を寄せることにしたが、夜になるとソ連兵に発見され、深夜まで暴行が行われた。暴行が終わるとソ連軍兵士たちは屋外に積まれてあった枯れ草を家の中に投げ入れては火を付け、女性たちを焼き殺そうとした。少女と妹は窓のそばにいたために難を逃れることができたが、他の女性たちは火の回りが早く脱出できなかったようであると証言している。助かった少女はその後、残留孤児として生きることを余儀なくされた[15]

一方、中国人、モンゴル人、朝鮮人のなかには生存者に食事を提供する者もおり、中国人のなかには子供を手厚く育てる者もいた。行動隊の生き残った親を殺された子供たちは、さまざまな経緯から中国残留孤児となっていた。約30人が残留孤児となった[16]。また、多くの女性が中国残留婦人となることを余儀なくされた[17][18]

国民学校校長夫婦以下児童270人うち200人が殺害された[19][20]

藤原作弥は、この事件は暴民ではなく一国の軍隊の攻撃によって無差別的に大量虐殺されたジェノサイドであり、その点では終戦時に満洲の日本人難民が遭遇した悲劇のなかでも最大のものであると評している[10][注釈 2][注釈 3]

中国における言及

浅野参事官は大きな溝に飛び込むよう命じると同時に、溝に手榴弾を投げ込んだ。この爆発で死亡しなかった避難民を、銃剣で突き殺した[22][誰によって?]

ソ連・ ロシアにおける言及

 
1945年8月14日、ソ連第39軍本部の報告書

V.P.ジモニン(歴史学博士)は、ソ連軍の避難民虐殺は「神話」であると主張している[23][要検証] E.S.セニャフスカヤは、「ソ連軍兵士の開拓民に対する虐殺」という捏造が広まったと主張している[24][][要検証] 開戦からソ連軍最高総司令部民間人に対して人道的な取り扱いがなされるよう命令していたが、関東軍兵士が女性と子供を強制的に自決させたという[23][誰によって?]

避難民女性達は日本軍のプロパガンダのせいで恐怖し、ソ連兵士に強姦されると思ったため自決したと主張している[23][誰によって?]

ソ連軍の戦闘記録によると、8月14日にソ連第61戦車師団(第39軍第5狙撃軍団所属。司令官はI.I.リュードニコフ上級大将)の先発隊は葛根廟北西の地域で停止したが、その場所の周辺で戦闘行為は行われておらず、射撃もなされなかったという[23]。15日にこの部隊は(白城子)へ攻撃を続け、白城子駅を占領した。

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ 後の中華人民共和国内モンゴル自治区ヒンガン(興安)盟ホルチン右翼前旗(葛根廟鎮)(中国語版)に所在するチベット仏教の寺院。
  2. ^ 終戦時の満洲では、東安省鶏寧県哈達河(現黒龍江省鶏西市)に入植した開拓団1,300名がソ連軍機械化部隊の攻撃を受け、追いつめられた結果、8月12日、麻山(後の鶏西市麻山区)付近で約400名の日本人が集団自決した麻山事件が起こっている[21][信頼性要検証]
  3. ^ 興安街付近では、東京荏原開拓団が匪賊暴民に襲撃されて約400名が殺害された事件、仁義佛立講開拓団がソ連軍機甲部隊の一斉射撃や暴民の襲撃によって600名以上が殺害された事件などもおこっている[10][信頼性要検証]

出典

  1. ^ a b 秦郁彦「日本開拓民と葛根廟の惨劇 (満州)」秦郁彦・佐瀬昌盛・常石敬一編『世界戦争犯罪事典』文藝春秋、2002年8月10日 第1刷、(ISBN 4-16-358560-5)、260~261頁。
  2. ^ (坂部晶子)「開拓民の受難」貴志俊彦松重充浩・(松村史紀)編『二〇世紀満洲歴史事典』吉川弘文館、二〇一二年 (平成二十四年) 十二月十日 第一刷発行、(ISBN 978-4-642-01469-4)、543頁。
  3. ^ 読売新聞大阪本社社会部 1992
  4. ^ Hanae (2012)[]
  5. ^ 外務省アジア局第五課「興安総省概況 (満洲省別概況第一三号) 昭和二十七年六月」加藤聖文監修・編集『海外引揚関係資料集成 (国外篇)』ゆまに書房、2002年5月31日、(ISBN 4-87802-097-0)、25頁。
  6. ^ 満蒙同胞援護会編『満蒙終戦史』河出書房新社、昭和三十七年七月二十日発行、134頁。
  7. ^ 終戦前後の満洲における惨劇、(中国帰国者定着促進センター)。
  8. ^ 中山隆志 1990, p. 410
  9. ^ 『徒歩旅行 : 体位向上』日本国際観光局満洲支部、1940年、p47
  10. ^ a b c 藤原作弥 1995, p. 323
  11. ^ 興安街命日会 (2014)
  12. ^ a b c 大櫛 (1996) pp.163-165
  13. ^ 大櫛 (1996) pp.158-164
  14. ^ 半藤 (2002) p.317
  15. ^ 読売新聞大阪本社社会部 1992, pp. 212–222
  16. ^ 文化部編集委員 喜多由浩 (2015年11月8日). “娘の首に刀を…「ごめんね、母さんもすぐに逝くからね」 ソ連軍に蹂躙された「葛根廟事件」(2/4ページ)” (日本語). 産経新聞社. https://www.sankei.com/article/20151108-DBIN7IHUBJMDBG5CJF5BSUFQDQ/2/ 
  17. ^ 大櫛 (1996) p.138
  18. ^ 大櫛 (1996) p.166
  19. ^ 文化部編集委員 喜多由浩 (2015年11月8日). “娘の首に刀を…「ごめんね、母さんもすぐに逝くからね」 ソ連軍に蹂躙された「葛根廟事件」(3/4ページ)” (日本語). 産経新聞社. https://www.sankei.com/article/20151108-DBIN7IHUBJMDBG5CJF5BSUFQDQ/3/ 
  20. ^ 文化部編集委員 喜多由浩 (2015年11月8日). “娘の首に刀を…「ごめんね、母さんもすぐに逝くからね」 ソ連軍に蹂躙された「葛根廟事件」(4/4ページ)” (日本語). 産経新聞社. https://www.sankei.com/article/20151108-DBIN7IHUBJMDBG5CJF5BSUFQDQ/4/ 
  21. ^ 藤原作弥 1995, p. 322
  22. ^ 关亚新 (2005) p.52
  23. ^ a b c d Zimonin (2010)[]
  24. ^ Senyavskaya (2015)[]

参考文献

  • 中山隆志『満州1945・8・9 ソ連軍進攻と日本軍』国書刊行会、1990年8月。ISBN (4-336-03167-3)。 
  • 読売新聞大阪本社社会部『葛根廟ー新聞記者が語りつぐ戦争 (5)』(新風書房)、1992年。ISBN (4-882-69198-1)。 
  • 藤原作弥『満洲、少国民の戦記』社会思想社〈現代教養文庫〉、1995年12月。ISBN (4-390-11561-8)。 
  • (大櫛戊辰)『蒼空と草原―殺戮の草原葛根廟巡礼記』崙書房出版、1996年6月。ISBN (4-845-51028-6)。 
  • 半藤一利『ソ連が満洲に侵攻した夏』文藝春秋、2002年8月。ISBN (4-167-48311-4)。 
  • (興安街命日会)『葛根廟事件の証言 草原の惨劇・平和への祈り』新風書房、2014年8月。ISBN (978-4-882-69794-7)。 
  • 关亚新、张志坤『日本遗孤调查研究 Investigation and Research on Japanese Orphans』社会科学文献出版社、2005年8月。ISBN (7-80190-625-X)。 
  • Hanae, Kurihara Kramer (2012). “Fleeing Defeat: The Japanese Exodus from Manchuria”. The Journal of Northeast Asian History (University of Hawai'i at Manoa) 9. 
  • Zimonin, Vyacheslav Petrovich (2010). Kanun i final Vtoroi mirovoi voiny: Sovetskii Soyuz i prinuzhdenie dal'nevostochnogo agressora k miru (istoriograficheskii analiz). IDV RAN 
  • Senyavskaya, Elena Spartakovna (2015). “"Russian barbarians" in the "cultural europe" and "wild asia": myths about the liberation mission of the Red army in 1944–1945 in today's internet space”. Velikaya Otechestvennaya voina: istoriya i istoricheskaya pamyat v Rossii i v mire (Tula State Lev Tolstoy Pedagogical University). 

関連書籍

  • (大櫛戊辰)『殺戮の草原 満州・葛根廟事件の証言』(東葛商工新聞社)、1976年8月。(ASIN) B000J6NAVG。 
  • 大櫛戊辰『わたしは、やっぱり中国のマーマ―ある中国残留孤児の記―』あらき書店、1985年。 
  • (良永勢伊子)『赤い夕日の大地で』読売新聞社、1986年12月。 
  • (森留美子)『母よ、友よ広野で眠れ―葛根廟事件の真相―』(日中出版)、1988年8月。ISBN (481751163X)。 
  • 藤原作弥『満洲の風』集英社、1996年7月。 
  • 藤岡信勝自由主義史観研究会『教科書が教えない歴史<2>』産経新聞社、1996年12月。ISBN (4594020402)。 
  • (大嶋宏生)『コルチン平原を血に染めて―少年の目撃した葛根廟事件―』(全国興安会通信社)、2000年8月。ISBN (4751207806)。 
  • 梁禮先・矢野一彌『満州鎮魂―引き揚げからみる戦中・戦後―』インパクト出版会、2001年1月。 
  • 原田一美『烏雲物語―ホルチン沙漠に生きる中国残留日本人孤児―』徳島教育印刷、2001年3月。 
  • (大櫛戊辰)『炎昼―私説葛根廟事件―』新風舎、2006年9月。ISBN (4289002587)。 
  • 平松伴子『2人のドン・キホーテと仲間たち―中国・ホルチン沙漠緑化に挑む日本人―』まるひ書苑、2009年11月。 
  • 下嶋哲朗『非業の生者たち―集団自決 サイパンから満洲へ―』岩波書店、2012年5月。 
  • 早坂 隆『大東亜戦争の事件簿――隠された昭和史の真実』扶桑社、2021年7月。ISBN (4594088236)。 [1]
  • Zimonin, Vyacheslav Petrovich (1987). “Truth and lie about Japanese orphans”. The Far Eastern Affairs № 3. 

関連作品・番組

  • 映画『(死の街を脱れて)』 (小石栄一監督、大映、1952年)
  • 報道特別番組『葛根廟の母たち』 (KBCテレビ、1977年11月14日月曜日9時30分)
  • 『赤い夕日の大地で』 (カネボウ創立一〇〇周年記念特別番組、日本テレビ、原作: 良永勢伊子、1987年2月24日21時2分)
  • 『(大草原に還る日)』 (日中国交二十周年記念ドラマ、CCTVNHKの共同制作、原作: 王興東、王浙濱、1992年11月9日~1992年12月15日)
  • 映画『烏雲の森』 (四国放送、2001年)
  • ソプラノリサイタル『モンゴルの大地よ』 (ソプラノ: 甘利真美、ピアノ: 多賀ひとみ、司会: 石川康弘、2002年11月 横浜みなとみらいホールにて初公演)
  • 映画『葛根廟事件の証言』(製作・監督・録音・編集:田上龍一、2019年製作/74分/日本、福岡インディペンデント映画祭2018「ドキュメンタリー部門最優秀作品賞」。第20回ゆふいん文化・記録映画祭コンペティション部門最高賞「第10回 松川賞」、「映文連アワード2017 企画特別賞」受賞。)

関連項目

関連書籍出典

  1. ^ 一筆多論 遠藤良介 露の残虐、77年前も今も『産経新聞』2022年8月9日。

外部リンク

  • 葛根廟事件の証言 草原の惨劇・平和への祈り(生存者の証言-動画)日本記者クラブ2014年7月17日
  • 犠牲避難民に紙の墓標 旧満州、1000人虐殺の「葛根廟事件」 日本経済新聞2014年8月13日
  • 西日本新聞2005年7月19日
  • 藤原作弥日本銀行副総裁、2005年9月13日
  • 東京新聞2014年7月19日
  • 水岡ゼミ巡検報告 2009年9月3日 葛根廟
  • 映画『葛根廟事件の証言』公式サイト
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