荘 勇雄( 「旧姓は(江頭氏)」)は、江戸時代の人物。大村藩士。
生涯
実父で家老である(江頭官太夫)[顕頴]の次男として生まれる。(荘加奈江)の養子となり荘新右衛門 後に勇雄[忠頼]と名乗る。
また家老 江頭官太夫の嫡子で実兄の(江頭隼之助)[熙典]も家老職を勤めており次男の荘勇雄も用人兼(長崎武用質素方)を勤め参政として権力を揮った。
1849年(嘉永2年)5月廻国修行の為に大村藩を訪れた神道無念流の剣客 齋藤弥九郎の嫡男である齋藤新太郎が大村藩士と他流試合をしたが、大村藩士の実力は遠く及ばず、これに驚きを隠せなかった大村藩は藩主である大村純熙公と家老 江頭官太夫が藩の剣術改革のため少数の藩士を江戸遊学と称し玄武館 士学館 練兵館にそれぞれの藩士を入門させた。この時、練兵館に入門した勇雄は練兵館の初代 塾頭になった[1]。
勇雄が藩主純熙や実父で家老の官太夫に剣術は神道無念流が実用に適すると説いた事により、齋藤 新太郎の弟 齋藤歓之助が大村藩に江戸詰の馬廻りとして100石で召し抱えられる事となった。
藩に仕官した後、1853年(嘉永6年)2月21日 大村藩主である大村純熙の御前で兄の齋藤 新太郎と弟の歓之助(練兵館)門人の数十人が試合を行い、藩主 純熙公が神道無念流を実見した。
1854年(嘉永7年)5月 齋藤 歓之助は勇雄と共に江戸から肥前国 大村藩に移った。大村に到着した歓之助に、藩主である純熙公は屋敷(剣術道場)微神堂を与えた。
1854年(嘉永7年)6月、歓之助を剣術師範に任命し、7月神道無念流取立て役(藩校の剣術師範最高職)に荘勇雄が任命された。