は列挙するだけでなく、(脚注)などを用いてしてください。 |
経歴
享保20年(1735年)、鳥取藩家老(荒尾成庸)の次男として生まれる。
寛延元年(1748年)7月、本家を相続していた兄荒尾成昌の死去により、急養子となって家督を相続し、米子城代となる。幼いため、実父の成庸が後見と米子の仕置代行を命じられたが、成庸は翌寛延2年(1749年)3月に死去した。同年8月、初めて米子入りする。寛延3年(1750年)10月、荒尾斯就の娘と結婚する。宝暦9年(1759年)、藩主池田重寛の将軍徳川家重への初御目見の際、共に登城し、拝謁を賜る。
宝暦10年(1760年)11月、御職家老(執政家老)となり、若年の藩主重寛を補佐し、藩政を主導する。宝暦11年(1761年)10月、御根取となる。同年、宝暦の改革の推進者である郡代元締役(安田成信)を罷免させる。成信が推進してきた請免制を基礎とする農政は、商品作物の生産流通を重視する政策に変更された[1]。
明和8年(1771年)4月、後桃園天皇即位式の祝賀使を務める。安永7年(1778年)8月、病により辞職する。天明3年(1783年)12月、藩主池田治道の家督相続御礼言上の際に、共に登城して将軍家治に拝謁する。
脚注
- ^ 藤野保『近世国家解体過程の研究後編 幕藩制と明治維新』
荒尾成熙が登場する作品
- 小説
- 佐伯泰英『居眠り磐音 江戸双紙』11 無月ノ橋 おこん恋々
参考文献
- 『因府年表』
- 藤野保『近世国家解体過程の研究後編 幕藩制と明治維新』