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若江三人衆

若江三人衆(わかえさんにんしゅう)は、三好義継若江城主であったころにそれを補佐した3人の家老

  • 池田教正
  • 多羅尾綱知
  • 野間長前(康久)

の総称。その筆頭は、多羅尾綱知である[1]。はじめ池田教正・野間長前は三好長慶に属し[2]、多羅尾綱知は細川氏綱に仕え[3]、三好義継が長慶の跡を継ぐと3人はその被官となった[4]天正元年(1573年)、三好義継が織田信長と敵対した際は、若江城に佐久間信盛の軍勢を手引きし、主君・義継の敗死に一役買っている[5]。義継の死後、3人は若江城に在城して河内国の北半分の統治に当たり、「若江三人衆」と呼ばれた[6]。軍事的には対石山本願寺戦の大将である佐久間信盛の与力となる[7]。寄親の佐久間信盛・信栄父子同様、3人とも茶道の造詣が深かったらしく、津田宗及の記録にたびたび登場し、盛んに茶会に参加している様子が窺える(『(宗及記)』)[8]

池田教正

三好氏と縁戚関係にある摂津国の有力国人・(池田氏)の一族とみられる[9]。官途は丹後守[10]永禄7年(1564年)、宣教師ガスパル・ヴィレラ三好長慶よりキリスト教の布教を認められ、三好氏の家臣が集団で改宗したが(『フロイス日本史』では改宗者は73人)、教正もその時キリシタンとなり、シメアンの洗礼名を得た[11]

長慶の死後、三好三人衆松永久秀の間で争いが起きると、教正は久秀に味方し、永禄9年(1566年)頃には(野間長久)ら摂津の中小国人らとともに「越水衆」として軍事的に編成され、三人衆方と戦っている[12]

義継を裏切った後は佐久間信盛に属して本願寺と戦う[13]。天正9年(1581年)の京都御馬揃えでは蜂屋頼隆に率いられ参加した[13]本能寺の変後の天正11年(1583年)、教正は河内から移封される[14]池田恒興に属して美濃に移ったとされるが、三好家を継いだ豊臣秀次が同年5月に摂津や播磨に所領を与えられており、その与力としてその地に移ったとも考えられる[14]。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、教正は巨大な金色の十字架を描いた旗を掲げて300の兵とともに群がる徳川勢を突破し武名を上げたという(『フロイス日本史』)[15]。天正15年(1587年)に伴天連追放令が出されると、教正は秀次に暇乞いをしたが、秀次は信仰を認めそのまま仕えさせた[15]。秀次が尾張で100万石を得て関白になると[15]文禄2年(1593年)に清洲奉行、木曽木材奉行に任命されている(『(駒井日記)』)[13]。文禄4年(1595年)の(秀次事件)の際、秀次自決後に殉死したとされる[16]

多羅尾綱知

通称は孫十郎[17]、左近大夫[18]、常陸介[19]近江国甲賀郡多羅尾の出身とみられる[17]。当初は細川氏綱の被官であり、氏綱と三好長慶が上洛を果たしたのち、同じく細川上野玄蕃家の細川国慶被官から氏綱被官となった今村慶満と共に行動している[20]。永禄4年(1561年)2月に氏綱が幕府に出仕した際は内藤貞勝や(長塩盛俊)とともに供をし、同年3月の将軍足利義輝の三好亭御成の際には池田勝正とともに氏綱の供を務めた[21]。氏綱が長慶との共同統治から退き、淀城で「淀屋形」と呼ばれるようになると、綱知は「守護代」と称されている[21]

永禄9年(1566年)6月、松永久秀方に付いて淀城に籠城したが、三好三人衆方の攻撃を受け退城した[22]。その後、三好義継に仕え、義継の妹を妻とする[1]

綱知はキリシタンを嫌い[23]、熱心なキリシタンである河内三箇城[24]三箇頼照毛利輝元に通じているとして信長に讒言した[23]。頼照・(頼連)親子は信長に殺されそうになったが[23]、綱知や頼照らの寄親である[23]佐久間信盛の執成しで助かったといい[25]、綱知は宣教師から「キリシタンの大敵」と呼ばれた(『日本耶蘇会年報』)[22]

天正9年(1581年)と推定される11月12日に津田宗及を招いて行った茶会で、綱知は松永久秀が所有していた茶釜の平蜘蛛を使用している[26]。これは綱知の子の(多羅尾光信)が、落城した松永久秀の信貴山城でその破片を集め復元したものだった[27]。また、同じ茶会で旧主義継の実父・十河一存の政宗の脇差を披露している[26]。天正9年(1581年)の馬揃えの参加予定者の中には「多羅尾父子三人」とある[22]

子に(三好生勝)(母は三好義継の妹)[28]と多羅尾光信がおり、生勝は織田信長、豊臣秀吉に仕えた後、黒田長政の家臣となった[29]。生勝の子孫は広島藩士となった[29][26]

野間長前

野間左橘兵衛、左吉[30]。諱は康久ともいう[30]。(野間氏)は摂津国川辺郡野間庄の出身とみられ[31]、軍勢催促を行う有力国人・伊丹氏に与力する領主だった[32]。長前の父・野間右兵衛尉長久は三好長慶が越水城主となった翌年の天文9年(1540年)、長慶より知行を宛行われ、その家臣となった[33]。松永久秀が摂津下郡を支配していた[34]永禄2年(1559年)3月、長久は下郡支配の実務に当たっている[35]。松永久秀と三好三人衆が抗争を始めると、永禄9年(1566年)頃には長久は「越水衆」に編成されて、久秀方として戦っていた[12]

長久の子の長前は、長慶の後継者・義継の奉行人に登用され、永禄10年(1567年)2月には野間左橘兵衛康久の名で(金山信貞)と連署し、西宮西蓮寺に文書を発給している[36]

永禄12年(1569年)2月から3月にかけ、将軍・足利義昭は摂津・河内・和泉に軍勢を派遣しているが、義昭直臣の和田惟政、織田信長家臣の佐久間信盛・柴田勝家ら、松永久秀家臣の竹内秀勝結城忠正とともに、義継家臣の長前が加わっていた[37]。その際、佐久間信盛、柴田勝家らと連名で諸寺院に書状を発給しており、信長家臣の彼らと義継家臣の長前はともに幕府の陪臣であり同格だった[30]。また長前は信長より、茶器を与え、茶会で使用することを許す「ゆるし茶湯」を行われている[38]。これは長前以外では織田信忠明智光秀・佐久間信栄・羽柴秀吉・村井貞勝にのみ認められたものだった[38]

本能寺の変後の天正11年(1583年)に河内から移封され、その後については不明である[39]。また、長前は池田教正と義兄弟だったとされ(『日本耶蘇会年報』)、姻戚関係にあったとみられる[30]

長前の子の勘介は関ヶ原の戦いの後、備前を拝領した小早川秀秋に仕え、秀秋の死後、播磨の池田輝政に仕官し、子孫は鳥取(池田家)に仕えた[39]

尾張藩御医師野間家は、尾張藩初代藩主の徳川義直の時代に召し出された野間隆紀の時より尾張藩に仕えることになったとされるが、隆紀は「野間佐吉兵衛尉長前」の孫とされている[注釈 1]

なお『寛政重修諸家譜』によれば、右兵衛(長久)の妻は松永久秀の姪で、その子供に三好長慶に仕えた佐吉(長前)、豊臣秀吉に仕えた鵜鷹、「松永秀久」の養子となった左馬進がいたとされる[42]。松永左馬進は『多聞院日記』には松永久秀の甥として登場しており[43]元亀2年(1571年)の(辰市の戦い)で討死している[44]

脚注

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注釈

  1. ^ 野間長栄の子で摂津小清水之城主の野間右兵衛、野間佐吉兵衛尉長前、野間隆長と続き、隆長が曲直瀬道三に医業を学んで、その子・隆紀(自求)へと続くとされる[40]。ただし、野間家の先祖書では、信長に仕え「阿州若江」に住んだ「野間佐吉」でなく、その弟・庄次郎の子の自求が曲直瀬道三の門弟となり、大坂から尾張にやってきたとされる[41]

出典

  1. ^ a b 天野 2021, p. 168.
  2. ^ 谷口 2010, pp. 51, 338.
  3. ^ 馬部 2018, p. 682; 天野 2021, p. 168.
  4. ^ 谷口 2010, pp. 51, 274, 338.
  5. ^ 谷口 2010, pp. 51, 274, 338; 天野 2018, p. 255; 天野 2021, p. 154.
  6. ^ 谷口 2010, p. 51; 天野 2017, p. 247.
  7. ^ 谷口 2010, pp. 52, 274, 338; 天野 2017, p. 248.
  8. ^ 谷口 2010, pp. 52, 274, 338.
  9. ^ 天野 2015, p. 80.
  10. ^ 谷口 2010, p. 51; 天野 2015, p. 79.
  11. ^ 天野 2017, p. 240.
  12. ^ a b 天野 2014, p. 151; 天野 2015, pp. 79–80, 101–105.
  13. ^ a b c 谷口 2010, p. 52.
  14. ^ a b 天野 2017, pp. 249–250.
  15. ^ a b c 天野 2017, p. 250.
  16. ^ 谷口 2010, p. 52; 天野 2017, p. 250.
  17. ^ a b 馬部 2018, p. 682.
  18. ^ 天野 2014, p. 151; 馬部 2018, p. 682.
  19. ^ 谷口 2010, p. 274; 天野 2014, p. 151.
  20. ^ 馬部 2018, p. 619.
  21. ^ a b 馬部 2018, p. 718.
  22. ^ a b c 谷口 2010, p. 274.
  23. ^ a b c d 天野 2017, p. 247.
  24. ^ 谷口 2010, p. 217.
  25. ^ 谷口 2010, pp. 217, 274.
  26. ^ a b c 天野 2021, p. 169.
  27. ^ 金松 2017, p. 84.
  28. ^ 天野 2021, pp. 168–169.
  29. ^ a b 広島県立文書館 編『広島県立文書館収蔵文書展 広島藩士三好家文書展―三好長慶から信長・秀吉・浅野長勲まで―』広島県立文書館、2015年https://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki_file/monjokan/zuroku/h26zuroku_miyoshi.pdf 
  30. ^ a b c d 谷口 2010, p. 338.
  31. ^ 天野 2014, p. 150.
  32. ^ 天野 2018, p. 37.
  33. ^ 天野 2014, pp. 150–151; 天野 2018, pp. 36–37.
  34. ^ 天野 2015, p. 79.
  35. ^ 天野 2014, p. 151; 天野 2015, p. 79.
  36. ^ 天野 2015, pp. 79–80.
  37. ^ 天野 2018, p. 228.
  38. ^ a b 天野忠幸『三好一族と織田信長 「天下」をめぐる覇権戦争』戎光祥出版〈中世武士選書 第31巻〉、2016年、138頁。ISBN (978-4-7924-1039-1)。 
  39. ^ a b 天野 2014, p. 152.
  40. ^ 山内一信「尾張藩御医師野間家の周辺調査について」『名古屋大学附属図書館研究年報』第6号、86頁、2008年。doi:10.18999/annul.6.85。 
  41. ^ 西島太郎「尾張藩「奥御医師」野間林庵家の研究」『名古屋大学附属図書館研究年報』第6号、107頁、2008年。doi:10.18999/annul.6.92。 
  42. ^ 『寛政重脩諸家譜 第5輯』國民圖書、1923年、368頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082718/193 
  43. ^ 『多聞院日記 第2巻(巻12-巻23)』三教書院、1935年、251頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1207457/131 
  44. ^ 金松 2017, p. 74; 天野 2018, p. 244.

参考文献

  • 天野忠幸『三好長慶―諸人之を仰ぐこと北斗泰山―』ミネルヴァ書房ミネルヴァ日本評伝選〉、2014年。ISBN (978-4-623-07072-5)。 
  • 天野忠幸『増補版 戦国期三好政権の研究』清文堂出版、2015年。ISBN (978-4-7924-1039-1)。 
  • 天野忠幸 著「三好氏の本拠地としての河内」、小谷利明弓倉弘年 編『南近畿の戦国時代 躍動する武士・寺社・民衆』戎光祥出版、2017年。ISBN (978-4-86403-267-4)。 
  • 天野忠幸『松永久秀と下剋上 室町の身分秩序を覆す』平凡社〈中世から近世へ〉、2018年。ISBN (978-4-582-47739-9)。 
  • 天野忠幸『三好一族―戦国最初の「天下人」』中央公論新社中公新書〉、2021年。ISBN (978-4-12-102665-1)。 
  • 金松誠『松永久秀』戎光祥出版〈シリーズ・実像に迫る009〉、2017年。ISBN (978-4-86403-245-2)。 
  • 谷口克広『織田信長家臣人名辞典 第2版』吉川弘文館、2010年。ISBN (978-4-642-01457-1)。 
  • 仁木宏中井均・中西裕樹・摂河泉地域文化研究所 編『飯盛山城と三好長慶』戎光祥出版、2015年。 
  • 馬部隆弘『戦国期細川権力の研究』吉川弘文館、2018年。ISBN (978-4-642-02950-6)。 
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