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芝蘇呂門

芝 蘇呂門(しば そろもん、1906年[1] - 没年不詳)は、日本の映画監督脚本家である。本名佐々木 美長(ささき よしなが)名義で脚本家としてデビュー、マキノ・プロダクションで監督になり、のちに神田 金太郎(かんだ きんたろう)と改名した[1]

しば そろもん
芝 蘇呂門
本名 佐々木 美長 (ささき よしなが)
別名義 神田 金太郎 (かんだ きんたろう)
生年月日 1906年
没年月日 不詳年
出生地 日本 長野県松本市
職業 映画監督脚本家
ジャンル 劇映画現代劇時代劇剣戟映画サイレント映画
活動期間 1925年 - 1931年
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来歴・人物

1906年(明治39年)ころ、長野県松本市に生まれる[1]

大学卒業後、映画監督の鈴木謙作を頼って日活大将軍撮影所に入社、19歳になる1925年(大正14年)、鈴木監督にオリジナル脚本を採用され、『血の人形』として同年11月13日に公開される(「佐々木美長」名義)。当時鈴木は同作の主演でもある女優の(宮部静子)との恋愛問題で撮影所内で評判がよくなかったこともあり、芝蘇呂門をつれてマキノ・プロダクションに移籍する[1]

1926年(大正15年)の入社早々、牧野省三にオリジナル脚本を採用され、御大自らの監督作『大江戸の丑満時』、(高見貞衛)監督の『バィオレットお伝』として公開された。翌1927年(昭和2年)、自らのオリジナル脚本作『踊る霊魂』で、21歳で監督としてデビューする。同年、監督第2作『狂めく舞踏場』を手がけたのちに同社を退社、休養に入る。1928年(昭和3年)6月7日、映画の研究を目的に「(天洋丸)」で渡米した[1]

1929年(昭和4年)9月、帰国してマキノに復帰、「神田金太郎」と改名した。すでに師匠の鈴木謙作も退社しており、牧野省三の没後であった。翌1930年(昭和5年)1月5日公開のオリジナル脚本作『職工慰安会』が帰朝第1作となった。「チャップリンのもとで修行した」との触れ込みで、チャップリンと撮った写真を証拠に映画論を語っているとの噂を聞きつけた市川右太衛門が仕事を発注、オリジナル脚本による『榛名の梅ケ香 安中草三』となり、同作は1931年(昭和6年)1月5日に公開された。その次の監督作は、体調を崩し、脚本に専念していた悪麗之助が「陸大蔵」名義で書いたオリジナル脚本による『血煙一番槍』であったが、それ以来、姿を消した[1]。すべてサイレント映画の時代の話である。

第二次世界大戦後、小石栄一監督が三益愛子主演の母もの(1948年の『母』『母紅梅』か)のロケーション撮影で松本市を訪れたところ、それを報じた新聞記事を見た芝蘇呂門(神田金太郎)が小石の宿泊地に現れ、近況を語ったという。母校でテニスを教え、実家の経営する貸家の賃貸収入で優雅に暮らしているとのことであった[1]没年不詳

フィルモグラフィ

「佐々木美長」名義

日活大将軍撮影所 1925年
  • 血の人形 原作・脚本 監督鈴木謙作、撮影(松沢又男)、出演(宮部静子)、(御子柴杜雄)、(妹尾松子)、山本嘉一三桝豊 ※脚本家デビュー作

「芝蘇呂門」名義

マキノ・プロダクション御室撮影所
1926年
1927年
  • 鈴蘭の唄 原作・脚本 監督鈴木謙作、撮影(若宮広三)、出演津村博、都賀静子、中根龍太郎、(小宮一晃)、滝沢憲森清
  • この母を見よ 脚本 監督久保為義、撮影(藤井春美)、出演滝沢憲、(水谷蘭子)、星英府
  • 獣人 脚本 監督鈴木謙作、撮影若宮広三、出演都賀清司、(那智恵美子)、(丘虹二)、児島武彦、鹿島陽之助
  • 踊る霊魂 原作・監督・脚本 撮影田中十三、出演(須田笑子)、荒尾静一柳妻麗三郎、(英まさる)、水谷蘭子 ※監督デビュー作
  • 狂めく舞踏場 監督・脚本 原作(北本黎吉)、撮影(川辺弥太郎)、出演津村博、(湊明子)

「神田金太郎」名義

マキノ・プロダクション御室撮影所 1930年
  • 職工慰安会 原作・監督・脚本 撮影(吉田俊作)、出演中根龍太郎、都賀静子、(三好絹江)、泉清子
市川右太衛門プロダクション 1931年

脚注

  1. ^ a b c d e f g キネマ旬報社[1976], p.200(岸松雄「芝蘇呂門」)。

参考文献

関連項目

外部リンク

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